挨拶

ご同輩の、ご訪問、大歓迎いたします。
「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)
徒然なるままに観想を記しています。

2014年6月11日水曜日

匿名性について考える

被告の弟が自殺… 発生から6年 今改めて考える「秋葉原事件」 ネット掲示板への固執が凶行を決意させた?」を読んで、ネットワーク社会の匿名性について考えてみた。
記事の要点は以下のものだ。
  • 「第三者の目」の限界と、「個人」が存在しない「世間」の怖さだ
  • 彼の意識は「掲示板がリアルで、リアルが非リアル」であったように思う。
  • 掲示板に秋葉原無差別殺傷事件を宣言してしまったことで、もう後戻りできないところまで来てしまっていることに気づきました」という掲示板への固執からだ。
  • その躾は屈辱的だったと批判する彼もまた、自身の母親同様に「言葉」で相手に説明する手段を知らない。
  • 掲示板の崩壊こそが「リアル(=自己が存在する場所)」の崩壊だったのだろう。
  • 事件が発生すると、加害者家族は、個人が存在しないこの“世間”に取り囲まれる
  • 匿名性が極めて高いインターネットが、もともと匿名性の高い「世間」の暴走をさらに加速させている
《「第三者の目」の限界》についは、本文に譲るとして、《「個人」が存在しない「世間」の怖さ》について考える。

《事件が発生すると、加害者家族は、個人が存在しないこの“世間”に取り囲まれる》という。事件が発生しなくても、「SNS参加者の関心に上れば」、十分に関係者はこの世間に取り込まれるのである。
つまりこの世間の,〈俎上に載せ〉られれば、もう〈俎板の鯉〉である。どう料理されるかは料理人次第である。綺麗に血抜きをして手際よく粗を取り、極上のお作りに仕上げるのである。新作メニューが競われているかのように・・・。
体話の不足が、肌合いが不足している。
赤ん坊に触れた時に感じる〈安らぎ〉のような感覚体験の不足が原因しているのではないだろうか。
社会がスマートになるにつれ、優しさまでもスマートになっているのだろうか。
優しさが消え、肌合いががさつき、逆立っていくように思えてならない。

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