挨拶

ご同輩の、ご訪問、大歓迎いたします。
「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)
徒然なるままに観想を記しています。

空飛ぶロボットドローンの正体 その可能性と適応問題

想定外と荒唐無稽

ドローンは、『吾輩は猫である』やアイスキュロスに結びつくという。
「どうにも荒唐無稽だが、一笑に付せる時代ではなくなった」とある。時空を超えて、何でも結びつくという事だ。思わぬ衝突が生じる。
我々は、「東日本大震災」で「想定外」の経験をした。荒唐無稽と思われることが、結びつき現実となったのである。ドローンはその象徴的な出来事である。
小型機:住宅地に墜落 住民含む3人死亡 東京・調布 - 毎日新聞の記事が飛び込んできた。天声人語に、「空を飛ぶことへの畏れ」と題する記述がある。噛み締めたい!
その規定にあるのは「領域侵犯」である。

ドローンとは、

《操縦士が乗らない、無人飛行機のこと。英語の「雄ミツバチ」から転じた。》
その活用領域がどんどん広がっている。
同時に領海侵犯が生じ、新たな問題が生じ、既成が問われている。
上記の記事のように、3Dで簡単に作成できるとなれば、現在以上にトラブルが発生することは必然である。日本で衆目を集めたのは、「官邸に…」「善光寺」である。事件を起こした少年はネット上で有名な存在で、援助をする人もあるという。想定外の急速な普及に、制度が追い付いていないのである。一部の先進的な利用者が規制のない自遊空間で勝手に実験を試みているという状態である。

ドローンの歴史

ドローンの歴史は古く、第一次世界大戦ではすでに研究が行われ、第二次大戦後の《1946年に行われた核実験クロスロード作戦」では新型の無線操縦装置を取り付けたQB-17が核爆発後の降下物測定に使用された》とある。
空飛ぶロボット!ドローンのオープンソース化で未来が面白くなる!」というが、一概に夢を追うだけでは「百害あって一利なし」という結果にならないとも限らない。
事件に関与するものの年齢層の低下も気になるところである。
科学的志向を基軸に進む社会は、「予測」と「制御」の両輪が確実に機能することを前提とする。「予測」と「制御」の基底には「人倫」が機能しなければならない。
現代社会の原動力は「欲望」である。欲望が暴走するのを止める社会倫理・人倫の涵養が肝要である。
The ultra-lethal drones of the future | New York Post参照・要約すると、鳥型・昆虫型ドローンを空中散布すれば、一機に標的の監視や攻撃が可能であることがわかる。

ドローンを巡って

官邸のドローン騒動から、一気にドローンが衆目を集めることになり、功罪併せて、喧伝されている。実際に、救援活動を妨げる原因ともなっている。
MARS、SARS、大気汚染の問題等と同様に、ドローンは領界を越え、空中を飛来する。
ウィルスの拡散に似て、パンデミックな流行を招来する。正しい適応が求められている。
ドローンに関するニュースのアーカイブを時系列で一覧にした。

予測と制御の問題

迎撃用のドローンを大学生が開発したというニュースが今日(7月22日)テレビで流れている。
そもそもから考えれば、当然の帰結である。バーチャルゲームとリアルゲームの境界が消えていく。境界を築くものは、節制、自制でしかなくなる。
「心」の力が拡大すると言える。それは又一方で、制御する大きな力が求められることになる。
7月30日、『自律型人工知能兵器:開発禁止へ署名 研究者ら1万人以上 - 毎日新聞』と規制を求める声が上がった。
人は、判断を下す時、その人間性を発揮する。慣習的なものごとについては、無意識に判断していることになるが、そこにもその人の人間性が現れているのである。新しいものごとに対処する時人は新たな体験する。新たな判断をもめられるのである。そこで人は、個性的な判断をすることになる。そこに現れるのがその人の人間性である。今回、現れた「ドローン」という新たなものごとにどう対処するか、日常として考えるか、非日常として考えるか、対応が異なるものになる。
この事件をどのような距離感で捉え、生活の中に取り入れるか問われている。
心の制御を他に依存することは、主体性の崩壊である。

ドローンの規制について

『自律型人工知能兵器:開発禁止へ署名 研究者ら1万人以上 - 毎日新聞』と規制については上述した。
6割以上が賛成であるという。調査結果は下記の通りである。
一方で、「飛ばないドローン」に活路 玩具大手、規制に困惑」のように、自由な領域、生活領域が狭められていく。
実験が科学者の特権でなくなった。素人が公の場で実験して自分の市場勝を問うているのだ。
市場と社会、会社と家庭、公と私の区別があいまいになっているのだ。
実験が自宅でできるようになった。いろいろなものが簡単に手に入る。それは又自宅を含む生活環境に外部から多種多様なものが侵入してきているという事である。
我々の生活空間はウィルスに満たされている。相互浸透し、汚染されている。
否応なくグローバル化の流れの中に取り込まれている。
障害を取り除くためには何らかの対処が必要であり、その一つが規制である。
それを誰がどこまでやるか、国任せでいいのか?規制が、新たな障害とならないよう慎重に事を勧めなければならない。
技術の進歩が速く、社会制度が追い付けないという問題が浮上しているのである。
拙速に過ぎるより、巧遅に傾くことが望ましい。
時熟、時を待つことを学ぼう。それが希望である。

主体性とは何か

結局、予測と制御は、主体性の基準をどこに置くかに帰結する?自身をどう規制するかが問われることになった。インディビデュアルは類例がなく、科学は扱えないのである。科学の網をくぐり抜けるのが個人である。自分で立つしか方法がないんだと自覚することしかないのである。私にはこう見え、こう感じられますという事を語ることでしかないのである。
「からだは、宇宙のメッセージ」なのであるから。
主体性は、これからの社会では重要な課題である。
主体性を放棄した人に選挙権を与えるかどうか?
投票権(選挙権)は、能力と責任の上に与えられるべきである。
無知であることは許されないのである。

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