挨拶

ご同輩の、ご訪問、大歓迎いたします。
「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)
徒然なるままに観想を記しています。

2014年6月30日月曜日

俚諺は生きている!!

「坂の上の雲」が日露戦争を「祖国防衛戦争」と位置付けた背景と重ね合わせて、今回の「集団的自衛権」の問題を考えていた。

余録:日米の安全保障関係を犬と飼い主に例えるのは… - 毎日新聞

  • 1966年3月18日の衆院外務委員会で、・・・いわゆる「番犬」発言である
  • 第一に、日本(飼い主)が米国(番犬)に守ってもらっている。第二に、にもかかわらず、日本国民は後ろめたく感じていない(基地提供義務を果たしている)
  • 山崎拓(やまさきたく)元自民党幹事長は「これまでとは異なる防衛政策の大転換だ」と強調する。
  • 番犬の飼い主から警察犬へという180度の転換
椎名外相の「番犬」発言を例に、立場が180度転換し、我々の祖国防衛の仕組みが変わると指摘する。

60年、70年安保の時代に、国民を納得させ、植え付けらえた「飼い主」意識を、改めて「番犬」認識に変えなければならないのである。この事をどれだけ認識しているだろうか。
これは二つの事を考えさせる。
一つは、これまで「米国〈番犬〉の飼い主である」という誤解の上で行動していたこと。
二つには、これからは「米国〈飼い主〉の番犬として」、これまで築いてきた関係の上で役割だけを変えることができると考えていること。
これらに伴い、次のような問題が予想される
前者は、日米関係を歪んだものにしており、その代償が求められる。
後者は、まさに切実な問題である。想定外の事態が発生する。
立場役割が変わった時、本性が現れるものである。拙速であってはならない。
そこで留意しなければならないのが、アメリカ人の番犬に対する観方である。
イギリス流の犬の訓練は著名であるが、共通するものが底流にあると思われる。
俚諺に《狡兎死して走狗煮らる》とある。このことを我々は既に経験済みである。
『坂の上の雲』は日本人が近代化の走狗になったことを我々に告げている。
歴史が繰り返さないことを祈るばかりである。

2014年6月29日日曜日

促成栽培は根が弱い!! 一目瞭然、野暮な説教もせざるを得ない??

W杯 決勝T進出の16チーム出そろう NHKニュース
  • ヨーロッパが6チーム、南米が5チーム、北中米カリブ海が3チーム、アフリカが2チーム
  • 特に南米は出場した6チームのうち5チームが勝ち上がり、勝負強さが際立っています。
  • 一方、アジア勢は今大会、日本、韓国、イラン、オーストラリアの4チームが出場しましたが、1990年のイタリア大会以来、1勝もできずすべて1次リーグで敗退しました。

競争、強制それが経済原理!!

パソコン好きは部屋にこもる。カーマニアは女友達とドライブへ。IT機器とクルマ、いずれも若い男が好む分野だが、愛好家同士は  :日本経済新聞
  • 社会性と経済性を兼ね備えた新市場を巡り、IT企業や自動車会社の間で主導権争いが激しくなってきた。
  • 技術の精度、法律、万一の時の責任問題などの壁を見すえつつ、民間企業が競争を通じ事故や高齢化という社会課題の解決に取り組む。その結果が個々の企業だけでなく国の成長にもつながる。そういう時代だ。
ことを伝える。
国に代わって、企業が国際的活動の第一線に、技術を引っ提げて登場している。
それは、市場が技術の実験の場を提供するからであり、実験結果が、実態とは関係なく、経済的合理性から強制される。その結果が個人だけでなく、民族を分断し、各地で紛争が起きているというそういう時代でもある。
官製技術の実験が政治的駆け引きの場としての戦場で、民生技術の実験が経済的駆け引きの場としての市場で行われている。その言い訳、目的として、平和の実現、幸福の追求を掲げているのである。
民間企業が競争を通じ事故や高齢化という社会課題の解決に取り組む》というが、個人は競争に倦んでいないか。《競争を通じ》という前提そのものの変革が必要ではないか。
問題は、競争が内発的であるかどうかである。
そして競争の意味、価値を問い直すことが求められているのではないか。
我々は「限定合理的に生きる」存在である。その限界を踏まえて志向する・・・

2014年6月27日金曜日

『ザックの誤算』を読んで

「皮算用」で、ザックジャパンについて振り返った。


毎日新聞は、『ザックの誤算』を特集している。どのように総括しているか、

以前から持っていた、素朴な疑問の答えを見つけたい。

  • ブラジル大会なのに、なぜ海外組はヨーロッパからだけ?
  • 恵まれた環境でプレーを続けた結果か。
  • 促成栽培の限界とカズの強さ

『暑さ対策、万全だったか』

万全でなかったと思うが、
  • 一度も勝てず・・・何が誤算だったのか。「ザック・ジャパン」の敗因を検証した。
  • 高温多湿でブラジルと環境が近い米フロリダ州での合宿で、暑さ対策に取り組んだ。
  • 「気候のいい欧州で1年プレーすれば、暑さに慣れない体に変わってしまうと実感している」
  • 海外組には指宿合宿前から合同自主トレーニングを行うなど、協会は暑さや湿気に体が慣れるようサポートしてきた。
  • しかし、イトゥは連日、涼しいというよりは肌寒い日が続いた。
  • 初戦のコートジボワール戦に臨んだレシフェの夜は時折、強い雨が降ったこともあり、気温こそ26度と高くはなかったが、湿度は77%。
  • イトゥの選定について、ザッケローニ監督は自ら足を運んで選んだことを強調する。

大きすぎた本田の存在

期待のかけ過ぎ、日本の珍種、経済効果を狙った突破口、最終的には売れるか売れないか
  • 「アイデアが足りなかった」と振り返った。
  • 個々の選手が、しなやかで独自性のあるアイデアを発揮できなかったのはなぜか。
  • 海外でプレーする本田が代表戦や合宿に遅れて合流すると、ほかの選手が「チームがぴりっとする」と証言するように、ピッチの中心であり続けた。
  • 「(本田らに)気を使う」関係ができあがり、同じ方向を向かなければ、このグループに入れないような雰囲気すら漂っていたという。
  • だが、大久保に与えられた時間は少なすぎた。
結局、ストレス耐性の弱さから退行し、自動症に陥るということ。
日本人としての節操が、持っている個性を生かし切れない。
「海外組」といっても、日本代表選手には、カズのように南米で活躍している選手はいない。


混沌する地政学

地政学とは、地勢学のこと?
「(世界新秩序 米中を追う)米の対テロ軟化、懸念する中国:朝日新聞デジタル」と伝える。
  • 無人機[15]による攻撃を多用し民間人も巻き添えにした対テロ[16]作戦をめぐって米国とパキスタン[17]の関係がぎくしゃくする一方、中国は戦略的に重要なパキスタン[18]を「真の友人」と呼び、深い関係を保ってきた。
  • だが、部族地域に潜むイスラム武装勢力[19]には米国同様に手を焼く。国際テロ組織アルカイダ[20]指導者だったオサマ・ビンラディン[21]容疑者殺害後、米国が対テロ[22]作戦を軟化させていることも、中国には気がかりだ。
  • 米軍は2016年末、アフガンから撤退する。中国企業はアフガンで、世界屈指の銅の埋蔵量が期待される鉱山の開発権を得たが、反政府勢力の脅威で工事が進まない。イラク[23]では、中国が原油の輸入を急増させ、13年には米国をしのぐ最大の輸出相手になった。イラク[24]に駐在する中国人は1万人にのぼる。
パワーバランスの妙というか、《権謀術数》《奇々怪々》、《天網恢恢疎にして漏らさず》と大義が実現するか、大疑を抱いている。

2014年6月26日木曜日

皮算用

ザッケローニ氏は2010年8月30日、サッカー日本代表監督に就任した。
東日本大震災のほぼ半年前のことである。ザッケローニ・ジャパンは震災と共にあった、その活躍は復興を支え、復興への過大な期待を背負っていたように思われる。
その期待が、W杯5回連続出場を実現させたが、グループリーグ敗退によって打ち崩された。
しかもCグループ最下位で・・・。
一方で、与し易いと見ていたギリシヤはコートジボワールに勝ち、決勝リーグに進んだ。
対戦前には、ギリシヤチームの選手の待遇が喧伝され、チームの士気は低いはずであると・・・。そうした苦境の中で彼らは決勝リーグに進んだのである。イタリア、スペイン、ポルトガルと同様にEU危機の元凶と叩かれた国であった。イタリアもスペインもまたポルトガルも敗退した。

結局、選手や監督、もちろん見る人、伝える側にも、甘さや身びいきに過ぎた面があったのだろう。世界の壁の高さを目の当たりにして、「1億総皮算用」で幕を下ろした夢の後味がほろ苦い。》とある。

同じな皮算用を「2020年の東京五輪」に期待していないだろうか。
経済再生、復興に向けて壮大な皮算用がされているように思えてならない。

2014年6月25日水曜日

今求められるリーダーシップとは

『リーダーシップとは何か』(ロナルド・A・ハイフェッツ著)の「大統領のリーダーシップ」の項に
不均衡の時代には回答を求める人々の切実さが強まり、オーソリティーの立場からのリーダーシップの必要性は一層重要になる。しかし、オーソリティーの人物がその依存関係を強化するようなことをし、自分が回答をもたないのに、自らを惑わしてそれをもっていなけれなばらないと考えると、拙劣な役割を果たしてしまうことになる。知っているべきだというプレッシャーから、答えを出してしまうのだ。それが十分に試されていない、人々を誤った方向に導く間違った回答であってもである。》とある。
翻って、安倍政権を眺めてみる。拙速に過ぎないか。

2014年6月23日月曜日

分離すれば、統合が必要に

(社説)問題児の分離 「これで解決」ではなく:朝日新聞デジタル」は荒れる学校の問題解決が、これでいいのかと問いかける。その要旨は以下のとおりである。
  • 大阪市[1]教委が、授業妨害などの問題行動を繰り返す児童・生徒を学校から引き離し、1カ所に集めて指導する「特別教室」を設けることを決めた。
  • 「まじめにやろうとする生徒らがバカをみることはあってはならない」(橋下徹[2]市長)
  • 邪魔者のように追い払われたと受け止めれば、大人をうらむ気持ちが更生の妨げにならないか。
  • 何より、「悪い子」を分けることが、本当に「よい子」のためになるのだろうか。
  • 立ち直った「元問題児」が荒れる子の相談相手となっている学校がある。教員や警察のOBの出番かもしれない。
確かに分離だけでは解決しない。問題が起きた原因について何等触れていないのも問題である。
何時まで分離するのか、結局、最終的には統合の問題になる。
分離すればそれだけ、距離が拡がる。それは騒音と共に懸命の叫び声も届かない距離である。
結局、汚染水処理と同じパターンか?
当面の都合だけ考えた対応では、問題は拡大する。
隔離したら、いつ融合するのか、更生、復帰のプログラムが必要である。

要するに、この問題は、問題児だけによって引き起こされた問題なのか?
そうではなく、家庭環境、地域社会、学校制度等、問題児を取り巻く、人間関係、社会環境によって創りだされた構造的なものである。にも拘らず、それを特定の個人に押し付けるのは公平性に欠ける。
「まじめにやろうとする生徒らがバカをみることはあってはならない」というが、彼等は、苦しんでいる人を直視し、その叫びを聞くことを「馬鹿らしい」と感じる人間なのか。
教養はあっても、素養の足りない、そうした子供が多くなっていないか?要は早熟なのである。
人間は、他の動物と異なり、幼児期間が長い。それはそれだけの時間を必要とするということである。
にも拘らず、高度な幼児教育が、考え出され、挙って、天才を育てようと奮闘する。
促成栽培に陥るのである。問題児ができる仕組みなのではないか。
もしかしたら、問題児のように反応することが正常な人間の反応ではなかったか。
正常なものを問題児として切り離しては、後には異常しか残らない。
絶望するしかなくなってしまう。これは社会にとって由々しき問題なのです。

一つには、子供自らが考えることである
二つには、子供から問題解決の機会を奪わないこと。
三つには、子供同士の接触を多くすること。
子供に、自らの問題に取り組み解決する時間的ゆとりを与えること、これが大人の役割である。
最近、頓に、子供の世界に、大人が、自分の都合で、口を挟みすぎると感じている。

上掲の社説は「何より、「悪い子」を分けることが、本当に「よい子」のためになるのだろうか。」と問うているが、答えは、「なりません」です。
英語を使って恐縮だが、cureには、careが必要で、それにはwithでなければならないのです。
社説も「立ち直った「元問題児」が荒れる子の相談相手となっている学校がある。」とwithの必要を指摘するが、「教員や警察のOBの出番かもしれない。」とすぐに大人を動員するのは安易すぎないだろうか。「仲間」が要るのです。

医薬業界、「最後は金目」ですね

昨日、「武田よ、お前もか」で、官製談合にも近い、医薬業界の問題について、語ったばかりである。

  • 「新聞記者なら、もっと正確な表現で聞いてくれ。病気を治す……と言うなら、病気の90%は薬では治らない。薬で治る病気は……へんとう炎、気管支炎、肺炎。これは抗生物質があるから治る。かび、水虫……あとは、ばい菌がついた病気だな」
  • 「高血圧を治そう、糖尿病を治そうと思っているが、アレは数値を下げるだけ。治してはいない」
  • 「降圧剤を突然やめると、また脳卒中を起こすこともある。薬は治すことはできないが、進行を止めることはできる。薬効と副作用をはかりに掛けて、薬を決めるんだが……何種類も飲ませるのは名医ではないな。まあ、イロイロと事情があるんだろうけど」と言葉を濁した。
と紹介する。イロイロな事情とは、手前勝手な都合のいい事情のことだ。
ノバルティスファーマの高血圧治療薬ディオバンについて、
  • この“インチキ論文”で、製薬会社はこれまで1兆2000億円を売り上げ、五つの大学は会社から計11億円を超える「奨学寄付金」を受け取っていた。グルとしか思えない。
  •  薬事法で逮捕された元社員の法定刑は「2年以下の懲役か、200万円以下の罰金」。それで済めば……と製薬会社は思うかもしれない。
  • しかし、国公立の教授は「みなし公務員」。特捜部の頑張りで、贈収賄が成立すれば……大病院の「多すぎるクスリの病理」は治るかもしれない。
と特捜部の頑張りに期待している。
しかし、ここに武田薬品の不正が加わるともう国家的な犯罪の様相を呈してきますね。臨界点を超え、医薬業界はメルトダウンを起こし始めているようですね。
業界だけでなく、どこかで甘い汁を吸っている人がいるんでしょうね。
共通番号で医療費抑制 政府方針、投薬など管理」なんてする前に、効かない薬が流通しないようにすることが先でしょう!!!

医学・薬学の発展のためには研究が必要で、その為には病人が必要だし・・・。
早い話、ウィルスが絶滅すれば、ウィルスバスターは無用の長物ですね。
しかし、ウィルスバスターが侵されるとウィルスをまき散らす増幅器に過ぎなくなりますね。
暴走する原子炉と同じで、誰も近づけなくなります。

忘れられる権利

ビッグデータの活用促す新たな法制度 :日本経済新聞が、
《欧州司法裁判所が新たにインターネット上の「忘れられる権利」を認めたことで、企業は様々な対応に追われることになりました。米グーグルが欧州の利用者を対象に、検索結果から自分自身に関する情報へのリンクを削除できるサービスを5月末から始めたのはそのためです。》
と、『忘れられる権利』なるものが出現したことを知った。
インターネットは、「砂上の楼閣」で、屋上屋を重ねて、結果は元の木阿弥になる?
でもそれを弁証法的進化と名付けている。
インフォーム(情報)の世界もリフォームしなければ、コンフォーム出来なくなっている。

2014年6月22日日曜日

武田よ、お前もか!!

予想されたことではあったが、やはり、業界の体質なのでしょうか。
武田薬品:降圧剤論文 学会グラフ、社員が作成 経緯説明へ - 毎日新聞
《関係者によると、同社は第三者機関の調査に対し、研究者側から委託を受け学会発表のグラフを作成していたが、データの改ざんはなかったと主張。学会発表と論文のグラフが異なったことについては、社員らが「記憶がない」などと述べ、原因は分からないという》

ここも限界質量を超えているのでしょう。
健康とは何か」で指摘したように、健康の基準が変わった。都合よく病人が作られている。
日本人間ドック学会、日本高血圧学会、日本動脈硬化学会、循環器学会学会、日本応用老年学会、動脈硬化学会など、学会により基準値が異なるのである。そして、今度は、治療のために、効果の不明の治療薬を、半永久的に投与する。
まさしくぼろ儲けの仕組み、これはもう産学官の共謀によって構築されていると勘繰りたくなる。
経営学では競争優位を確保するために、ビジネスモデルを構築を説きます。
各社はその構築に凌ぎを削ります。
そして武田薬品はエクセレントカンパニーとして、その経営が賞賛され、そのビジネスモデルは各社によって研究されています。武田薬品の成功には、別の秘訣がありそうですね。
企業の買収は他社もやっています。それだけでは、競争優位は保てないのでしょうね。
金力が徳義心を買収することを漱石はすでに100年前に指摘していました。慧眼ですね。
医学・薬学・生物化学などライフサイエンスに関わる分野は、他の科学とは異なり、それなりの倫理観を期待したのですが、無理なのでしょうか。理研もそうですが・・・・。
これも社会的な抑圧の故ですかね???

普通の国

集団的自衛権について

社説:視点 集団的自衛権「普通の国」論 - 毎日新聞は、
遺産という古くて新しい視点。国民の血税である経済支援が本当に評価されなかったのかという検証。加えて外交能力の向上など別手法での対応がまだ考え尽くされたわけではない。これで特殊な国としての生き様を捨てるのはいかにも惜しい。》という。
〈フクシマ〉の汚染処理が不十分なままに、〈ヒロシマ〉で罹患した核アレルギーで我々は退行しているのか。判断力が不足しているようだ。検証も不十分なままに、ただ先を向いて歩いていく姿はまさに、フィードバックなしの、フィードフォーワードで集団自殺を習性とするレミングの姿を想像させる。
検証ではなく、自省、反省が必要なのだが。

毎日新聞も、集団的自衛権の特集を組み、その事例を細かく「検証」しているが、検証だけで済ませるプロセスに問題はないか。プロセスが固定化し、検証が上滑りしているのではないか。それでは、普通の国にはなれないのではないか?

2014年6月16日月曜日

”らしさ”と”熱さ”

「背負うのが自分らしさ。W杯は躍動したい」 と長谷部は語っていた。

  • 「いろんなことはイメージしています。とにかく自分の良いところっていうのを、チームのやり方と融合させて、攻撃に守備に、僕のポジションなら両方やらなきゃいけないので。……躍動。躍動したいですね」と力強く語った。
〈自分らしさ〉を発揮するには、激情・情熱、つまり〈熱さ〉が必要であった。しかし、湿度80パーセントの熱さのなかで、日本は4年間、習得・強化してきた〈日本らしさ〉を発揮できずに終わった。
なぜか?ここで想像を膨らませてみると、「〈熱さ〉が出せなかった」ということだ。なぜなら、すでにフィールドは高温多湿で熱かった。それでも日本チームは前半よく戦った。が、後半、息が切れた。なぜか、オーバーヒートしたからだ。《過ぎたるは及ばざるが如し》である。クールダウンできなかった。
日本と比べて、コートジボワールは冷静であった。〈自分らしさ〉を発揮するために〈熱さ〉は必要なかった。彼らは冷静であればよかったのだ。

頭でやるサッカーと体でやるサッカーの違い

結果的に、基礎体力の差ということになりそうだ。〈自分らしく〉あるために〈熱さ〉を必要とし、一皮も二皮もむけなければならない日本人とその必要のない者との差であった。
スマート社会で、日本人が失ったもの(本能)、失おうとしているもの(感覚)が大きく映し出された戦いであった。

思考力とは

思考力の中心には行動がある。
「1位京大、思考力に評価 人事が選ぶ大学ランキング 徳島大6位・九大9位、地方の国立健闘」日本経済新聞6月16日付は、
《就職・転職支援の日経HRは企業の人事担当者を対象に、新卒社員の出身大学のイメージ調査を実施した。「対人力」や「知力・学力」「独創性」など5項目にまとめ、総合評価が最も高かったのは京都大学だった。2位に神戸大学、3位に大阪市立大学が続き、関西の国公立大学が上位を占めた。採用にあたる人事担当者の評価ランキングは就職活動を気にする受験生の大学選びの参考になりそうだ。》
人事担当者の評価ランキング = 大学選び》は短絡的な、思考力を欠いた選択だと思うが、思考力の背景には、試行錯誤の経験がある。その経験の豊かさが発想力の豊かさにつながる。
例えば、綺麗に整地され、区画整理された頭と、開墾は不十分であるが、草木が茂り、野鳥や昆虫などの生物が群れ集うそうした滋養豊かな頭との二つがあったとすれば、どちらが豊かな思考力を期待するであろうか。前者の頭は特定の用途には効率的に利用できる。しかし、思考が限定されている。後者は、効率性は未定である。しかし、あらゆる可能性を秘め、思考力を働かせる余地がある。
思考力を豊かにするには、生きた経験をすることである。
そうした意味では受験勉強なるものは思考を効率的にするかもしれないが、思考力は減退させるものと謂える。
ところでICT教育が導入され始めたが、思考力は向上するのであろうか。
その判定は難しいものになるだろう。思考・思考力をどう定義するかに拠るが、思考力は減退するのではないかと個人的には思う。それを思考という重荷からの解放として、進化と評価しているかのようである。もしそうであるなら、パスカルの謂う「人間は考える葦である」といった格言が意味する人間の価値が減退することが進化ということになり、進化の概念を書き換える必要が出てくる。

2014年6月14日土曜日

不正を不正と認識せず

科学的思考では、「〈不正〉を正しいことを証明できなかった〈仮説〉に過ぎない。」とでも考えるのであろうか。擬装を単なる仮説の綻びと考えているかのようである。
『サイエンスカフェ:不正を不正と認識せず - 毎日新聞』は、
《STAP細胞の不正でも会見した研究者に明確な反省は感じられなかった。「不正を不正と認識しない」。その言葉が妙に説得力を持って聞こえる。》
という。改めて科学者の鈍感を思い知らされる。
促成栽培で、必要な素養が十分に育たないままに伸びてしまったモヤシがバランスを失っているように見える。
《大学にはさらに科学史や科学哲学の授業を課し、広い視野と責任感を持った人材を育ててほしい》と、その治療に当たって、歴史・哲学を課すことを提言する。
退行し、麻痺した科学者の感覚は、理性では治せないのであろう。
弁証法の登場である。


2014年6月13日金曜日

ノバルティスのデータ改ざん

ノバルティスの社員が逮捕された。またしてもデータの改ざんである。
神聖であるべき科学の領域が侵されている。
問題をまとめてみれば、次図のようになる。メーカーと大学の癒着の上に胡坐をかく許認可行政。論文作成はメーカーにとって広告効果、研究者にとっては学会発表、学位論文のために、また研究費の援助を受ける口実として大きなメリットを生むものである。結果として、産学官による「ドラッグラグ大国」の創出、国民は高額医療費の負担を強いられる結果となる。

毎日新聞は以下の記事を特集する。

臨床試験疑惑 主論文も改ざん疑い ノ社立件も視野2014年06月12日

  • 臨床試験のデータを2009年の試験終了直後に受け取っていた
  • これを基に執筆されたバルサルタン[1]に関する同大の主論文もデータ改ざんが指摘されており、
  • 脳卒中などについてバルサルタンに有利な結果が出るようにデータを操作した図表を研究者に提供。
  • バルサルタンに脳卒中や心疾患の発症を抑える効果があるなどとしていた。
  • 白橋容疑者は自身で統計解析し、作成した図表を研究チームに提供。これを基に主論文が執筆された。

2014年6月12日木曜日

無重力な思い

日経新聞「春秋」に次のような文章を見つけた。
《人の重心はへその辺りにある。貝原益軒の養生訓では命の根がある場所。ここに力がないと体を支えられない。活動に支障も出るそうだ。航空会社にもあてはまる。へそは安全運航と顧客満足のはず。再建できて初心を忘れ、位置が見えなくなっていないか。会社運営の原理を学び直さないと、業績で臍(ほぞ)をかむことになる。》
《アルキメデスの原理》が発見された逸話から、《日本航空のシステム障害では、重心が計算できず、178便が欠航、約1万4千人が迷惑した。》ことに触れ、貝原益軒の養生訓へと話が展開している。

広辞苑に拠れば、思う、想うの語幹は重いの語幹と同源かと謂う。
重力に逆らい立ちあがり、二足歩行するようになった人間にとって重さを感じることが思うことの始まりであったことを想像させる。二足歩行にはバランスを取ること、重心の移動が最重要課題であり、最初に学習しなければならないことの一つであった。
進化(脳の発達)の過程で重い⇒思いが深い関係にあったことは容易に推測される。
大切なものに重要という言葉をあてたのも、思うことと重さの関係を表しているのであろう。
相手を思うということは、相手の重さを感得することと考えてみてはどうだろう。
そしてこのことは、我々が重力に支えられた存在であることを改めて気づかせる。
快苦感情は重圧に依って、重圧から解放されることから生まれる。
重力などの環境要因によって思考も成り立っていると考えられる。
若し我々が無重力状態で育ったなら、〈おもい〉ではなく、異なるもの、例えば〈かるい〉と名付けられるようなものを身に付けたかもしれない。

2014年6月11日水曜日

予測とその必要性

気候変動予測の裏側、性能「PCの1万倍」が必要な理由は予測が必要な理由を挙げている。
そしてその精度は急速に高まっている。そこに問題はないのだろうか。精度を上げるための努力(エネルギー)が環境(主体性)とのギャップを拡大しているのではないか。
システムが拡大し、分散管理、リーダーシップの必要性が説かれている。にも拘らず、主体性が最も発揮される説明(仮説の提案)部分から人間性《生きた経験)が排除されている。

このように、生きた経験が反映されない実験の繰り返しは、結果を実証する責任を回避したもので、その付けを後世に残すことになる。
物事は生活の中で生かされて初めて価値が出るのである。
中世、我々日本人は「生活にプラスであるものを善とし、マイナスものもを悪と名付けた」と謂われる。
コンピュータ〈情報システム)は偉大な発明である。
しかし、善用されなければ、人を惑わす圧倒的な力(悪)として働く。
その威力に見合う、意力の涵養が求められる。我々には現在原子力を使い熟す意力が備わっていないことだけは確かなようである。
システムは人工的である。人間の主体性が失われては、暴走するのみである。
システムが善用されるか悪用されるか、その主体性に委ねられている。

匿名性について考える

被告の弟が自殺… 発生から6年 今改めて考える「秋葉原事件」 ネット掲示板への固執が凶行を決意させた?」を読んで、ネットワーク社会の匿名性について考えてみた。
記事の要点は以下のものだ。
  • 「第三者の目」の限界と、「個人」が存在しない「世間」の怖さだ
  • 彼の意識は「掲示板がリアルで、リアルが非リアル」であったように思う。
  • 掲示板に秋葉原無差別殺傷事件を宣言してしまったことで、もう後戻りできないところまで来てしまっていることに気づきました」という掲示板への固執からだ。
  • その躾は屈辱的だったと批判する彼もまた、自身の母親同様に「言葉」で相手に説明する手段を知らない。
  • 掲示板の崩壊こそが「リアル(=自己が存在する場所)」の崩壊だったのだろう。
  • 事件が発生すると、加害者家族は、個人が存在しないこの“世間”に取り囲まれる
  • 匿名性が極めて高いインターネットが、もともと匿名性の高い「世間」の暴走をさらに加速させている
《「第三者の目」の限界》についは、本文に譲るとして、《「個人」が存在しない「世間」の怖さ》について考える。

《事件が発生すると、加害者家族は、個人が存在しないこの“世間”に取り囲まれる》という。事件が発生しなくても、「SNS参加者の関心に上れば」、十分に関係者はこの世間に取り込まれるのである。
つまりこの世間の,〈俎上に載せ〉られれば、もう〈俎板の鯉〉である。どう料理されるかは料理人次第である。綺麗に血抜きをして手際よく粗を取り、極上のお作りに仕上げるのである。新作メニューが競われているかのように・・・。
体話の不足が、肌合いが不足している。
赤ん坊に触れた時に感じる〈安らぎ〉のような感覚体験の不足が原因しているのではないだろうか。
社会がスマートになるにつれ、優しさまでもスマートになっているのだろうか。
優しさが消え、肌合いががさつき、逆立っていくように思えてならない。

科学的思考とは何か

『科学的思考とは何か』(竹内均著)は、現代の技術がシステム的であることを次の三つの面から指摘し、
第一に、それは個々の技術の束ね合わせという意味でシステム的である。第二に、生産だけでなく、生産の結果生じる廃棄物の回収や循環を考慮しなければならないという意味でシステム的である。第三に、価値観や好みの変化や社会的責任を考慮しなければならないという意味でシステム的である。
その著しい特徴は「束ね合わせ」「システム化」「ソフト・テクノロジー」「マネージメント」にあるという。
「科学的思考とは何か」「システムとは何か」、そして気象予測、地震予知など膨大な予算が予知・予測対策に割り当てられている。「なぜ今、予知・予測なのか」まとめてみた。経過・結果はこちらから


システムとは何か

「〈システム思考〉が必要である」といわれる。
なぜ、今、〈システム思考〉なのか。
システムとは何か。
考えをまとめてみた。

システムとは

システム

『現代科学思想事典』はつぎのようにいう。

《電気工学、機械工学尚の分野で機械装置を設計する際には、どのような構成要素をどのように結合させれば装置全体として最大の機能を発揮させうるかが重要な問題となる。このような機能が主となり、システムという観念が注目されてきた。システムとは「ある共通の目的に奉仕する複数の要素と要素間の相互依存関係よりなる複合体」と定義される。そしてより広い範囲の問題にも解決の一般的図式を与えるシステム分析、システム設計などシステム工学の分野を形成するに至り、今日その応用は生産工程の管理、情報処理システム、経営管理や宇宙開発など広い領域に及んでいる(目的をもった人工的なシステムの場合)一方、十九世紀に入って生物学や心理学においては古典的物理学の影響の強い原子論や要素主義的な分析への批判から、ある系を構成する部分や要素などはそれ自体で独自の意味を持つ究極的単位とはみなせないとするむしろそれはあたかも目的や秩序をもつ全体の組織化の原理により理解されうるとした。例えば全体論に立つL・ベルタランフィの理論生物学やゲーラー、コフカなどのゲシュタルト心理学が発展した。特にベルタランフィ波形の組織化、統合化の法則や動的平衡の現象を自然の様々のレベルに見出し、組織化された全体に関する科学と規定された一般システム理論を展開している。彼はそのシステムを「相互作用下にある諸要素の集合」と定義している。生物学区、心理学、社会学などの研究から共通の原理を抽象する経験主義的な研究のほかにも演繹的または公理系的システム論の建設がW・R・アシュビー、M・メサロヴィッツなどにより試みられた。アシュビーは環境からの入力の影響下にある変換の組としてのシステムというもっとも抽象的で可能的なものの全体に照らして現実の系に解釈、説明を与え、また安定性や目的概念などを生気論の助けを借りずに分析している。》

複雑な現象の総合的把握

《ブルバキ学派の数学やN・チョムスキーの言語学で、レヴィ=ストロースの人類学などを踏まえてJ・ピアジェが全体性、返還及び自己制御の三つの要素で特徴づけた構造の概念との関連も無視できない。システムとは実在そのものでなく、関係という概念を通じて実在から注そうした像と考えることもできる。またピアジェでは向王の概念は観察されるがままの相互作用の体系ではないにせよ、単なる主体の意識に属する形式というものでもなく、操作的行動を通じて確証されるものと考えられている。あらゆる現象観に相互作用が働いているという認識は、エンゲルスの自然弁証法を引き合いに出すまでもなく、科学技術の発達に伴う人類の自然に対する支配力の増大や社会の複雑化につれますます痛切なものとなっている。今日ではアッコフ、K・E・ボウルディンング等のシステム論者は従来の物理、科学、生物、社会といった専門学問の区分は死前にとっては単位人為的なものにすぎず、複雑な現象の理解のためには専門の壁を除いて生の素材に取り組む学際的集団研究の必要性を強調している。
最も問題のあるシステム概念は人為的であってかつ全体として目的を持たぬシステムである。例えば自然発生的集落や都市の交通系など、個々の要素(住民、ドライバー)はそれぞれ目的をもった主体であるが、システム全体としては目的を持っていない場合である。人間や社会に対するシステム論的方法の早急な適用への警告はシステム論者自身からなされている。システムという概念は、古典力学における質量、エネルギーのような、いわば幻想の根底をなす保存料的な概念とは、対照的な関係的、構造的概念である(あるいは形式的形相的概念)と同時に群論やグラフ理論などいわゆる有限数学の手法を有力な武器として捜査されうるが、その際何を要素と定め、何をシステムとして選択するか(切断)という点で、観察者に依存し、主観性を含む概念である。》

要するに、「相互作用下にある複合体を機能連関の統合として捉えたもので、観察者に依存する、名目論的なもの」である。
また、『科学的思考とは』(竹内均著)は現代の技術について、

《技術の総合、廃棄物その他の回収及び循環、価値観の変遷及び社会的責任という三重の意味で、現代の技術はシステム的である。このようなシステムを組むには、先ずシステムの目的と評価尺度を決定する。次に、ブレーンストーミングとデータの収集および分析を行う。》

要するに、科学、科学的思考は、思考実験を繰り返し、機能を統合化し、情報システムを生み出した。システム概念は情報システムとして体化し、思考実験を促進し、科学的思考はシステム思考として機能し、PDCAに要約された。
科学的思考⇒思考実験⇒システム化⇒情報システム⇒システム思考

2014年6月4日水曜日

自然について

『現代科学思想事典』伊東俊太郎編によれば、

ギリシアにおける自然

一般に「生まれる」という言葉と結びつくものと考えられている。そこでは生まれ、成長し、衰え、死するものが「自然」であった。つまり「自然」とはそのうちに生命力を有し、自らからの力により生成発展するものであった。従ってそれは近代の「自然」概念の如く「他から力を加えられない限り、その運動状態を変えず、静止するものは永久に静止する」(ニュートンの第一法則)ことを本性とする自然ではなく、むしろアリストテレスがその「自然学」」の中で定義したように「自らのうちに運動の原理をもつもの」が自然であった。
このように自然自身が一種の生命力を持ち、生成発展の原因をもつ――そのように自然の素材が生命をもつという意味での「物活論」が、ギリシアの少なくとも支配的な自然観であった。
古代ギリシアにおいては、近代におけるように死せる無機的自然ではなく、生命ある有機的自然が「自然」の原型であった。このようなギリシアの自然観においては、「自然」は何ら「人間」に対立するものではない。人間はむしろそのような生命的自然の一部として、それに包み込まれている。自然は人間に対し異質的対立的ではなく、むしろこれと同質的に調和する。神ですらそこでは「自然」を超越するのではなく、それに内在的である。実際「万物は神々に満ちている」(タレス)のであり、「踏み入ればそこにも神々は住む」(ヘラクレイトス)のである。
近代におけるように、我々に全く無縁で異質的なこの自然に、外から「実験」という「拷問」をかけ、それを「支配」するのではなく、我々に親縁な同質者として、それを内から「直観」し「理解」することである。そしてそこに直観し把握さるべきものは、外的現象としての自然の「法則」ではなく、そのものの内的本質としての「形相」であった。結局ギリシアにおいては、自然は人間や神をもその中に包み含む生きとし生ける統一体であって、このような一種の「汎自然主義」を基礎としていたといえよう。

中世における自然

ところが中世キリスト教世界に入ると、上述したようなギリシアの「汎自然主義」は粉砕され、神と人間と自然との截然たる階層的・異質的な秩序が現れてくる。そこでは自然も人間も神によって創造されたのであり、神はこれらのものから全く超越している。
そしてこの三者はいずれもそれぞれ独自な役割と活動をもちながら、下位のものは上位のもののために存在する。人間は神のために存在し、自然は人間のために存在する。人間はこの中間にあって知性により神を知り、理性により自然を認識する。この中世の自然観においては神・人間・自然がこのように階層的に分断されることによって、先ず神は自然の一部ではなく、これを超越する。自然に内在していた神は消えたなくなり、「大いなるパーンは死んだ」のである。ついで人間もまた自然の一部ではなくなった。自然はもと人間と同じく神によって創造されたものとして、今やそれ自身としては人間の全くあずかり知らぬ「外なるもの」となる。人間は自然と同質的なものではなく、それから疎外される――というよりも自然を越え出てその上に臨み、それを支配し利用するものとなる。ここに、自然を人間と全く独立無縁なものとしてこれを客観化し、この「気心の知れぬ」第三者に、外から実験的操作を加えて白状させ、これを純粋な他者として科学的に把握しようとする近代の実証主義的態度の形而上学的源泉が看て取れるのである。この意味では確かに「キリスト教の時代の帰結が自然の機械論化であり、キリスト教が実証科学と技術を可能としたのである」(ベルジェフ)。もちろん中世思想は一挙にしてこのような帰結に達したのではない。しかしそれがギリシアの「汎自然主義を破り、自然を人間と同質的なものとしてではなく、人間とはまったく異なる独立な第三者としたことは、自然から人間を追放し、これを専ら機械論化してゆく近代の自然観を準備したことは疑えない。

近代における自然

上述のように自然は神によって人間に対し、第三者として定位された。今や自然は何ら人間との類推を許されぬそれ自身の独立な存在となった。のこの「非人間化」ア推し進められる時、それは軈て自然から人間的要素としての色や匂いなどの「第二性質」やさらには「目的意識」などを追放して、専らこれを「大きさ」「形」「運動」などの自然自信の要素において、因果的に分析してゆくという立場に至る。こうした自然の観方に、ルネサンス以降復活したギリシアの数学的方法が結びつくならば、それは既にほぼ近代の自然観が成立したといってよいであろう。つまり本来人間の側の性質であるところの「質」を捨象し、専ら「量的」関係だけで、自然を客観的因果的数学的に把える「機械論的自然観」がこれである。中世においてここに至る思想的素地がすでにあったとはいえ、このような徹底的な反省は近代哲学の祖デカルトを待たなければならなかった。デカルトは若くして成功を修めたその『幾何学』に彼の「自然の機械論化」の鍵を見出し、ここに用いられている方法を数学的対象のみならず自然界の事物一般にも適用し、あらゆる物体を一様な幾何悪的「延長」として把握し、それらの物体の量的関係のみを求めてゆこうとした。この意図を遂行するために、デカルトがまずなさなければならなかったのは、「実体形相」の消去――つまりアリストテレス的な霊魂〈プシューケー〉のスコラ的翻訳である。「生命原理」を物体から除去することであった。彼にとってこのように物体から霊魂的・心的なものを取り除くことは、同時に精神から一切の物的なものを取り除くことであり、ここに彼の徹底した二元論が成立する。ここでは心とか霊魂とか呼ばれてきたものは「純粋椎」として純化され、同時に自然は単なる延長として一切の人間的生命的要素を欠いた数学的対象となる。ここに古代ギリシアの有機的自然観は、近代の無機的自然観にとって代わられ、physisの訳語とされたnaturaは、今やnascor(生まれる)との連関を断ち切ることとなる。単位「形」「大きさ」「運動」という延長的な面からのみとらえられ、それ自身色も匂いもない数学的物理的自然が、本来の自然であって、生命的自然と呼ばれるものは、前者がある特別な配置をとった結果に過ぎないのである。このようなデカルトにおいて典型的に示されている近代の機械論的自然観は、その後根本的には変わらず、依然として我々の今日の科学的思考を嚮導しているといえよう。

自然の支配

近代の自然観を問題とするとき、右の「機械論的自然観」と並んで、もう一つの特長を挙げておかねばならない。それは人間によって「支配され利用さるべき自然」という新しい概念である。既に述べた用意ぎっりしあにおいては自然は人間により整復さるべき「対立者」ではなく、かえって人間と同質のものとして内から直感し理解さるべきものであった。それは理論の対象であっても支配の対処ではなかった。しかし中世キリスト教世界では、自然を本来人間に仕えるものとして把え、これを技術的に利用しようとする功利的・実践的自然観がすでに十二世紀以来芽生えていた。しかしこのイデーを最も自覚的かつ雄弁に表明したのはデカルトと並んでもう一人の近代哲学の祖とされているフランシス・ベイコンであった。彼において自然はまず未知なる第三者として、経験に即して実験的に試され、そのことにより自然は「解剖」され、それによって得た知識に基づいて支配され、現実に利用さるべきものであった。これが「知は力である」といった時の彼の新しい実践的知識観であり、「自然はそれに服従することによって征服される」といった時の自然に対する新しい態度であった。彼はその著『学問の進歩』において、自然についての学問を自然のなかの原因だけをたずねる「思弁的」科学と、逆に結果を生ぜしめる「操作的」科学とを区別したが、この後者の概念にはギリシアには存在しなかった自然の実践的支配のイデーが表現されている。
彼にとって科学とは単にアリストテレス的な観相〈テオーリアー〉ではなく、自然に働きかけ、これを支配しようとする実践的な知識であり、このためには「自然の物体をむき出しにし、人工的に変化させ処理する技術」としての「実験」が重んぜられる。これによる自然の統御とその利用により[人類の欠乏と悲惨とを克服する一連の発明を生み出す]ことを彼は企図したのである。
このようなデカルト=ベイコン的な近代の自然観は確かに多くの成功をおさめ、人類の物質的条件を根本的に改善し今日の科学技術時代を現出せしめている。この意味でそれは一定の積極的な役割を果たしてきたといえよう。しかし今や外ならぬこの近代の自然観がそのようなプラスの面だけではなく、「公害」その他のマイナスの面をも生み出している当のものであることを否定することはできないだろう。我々はすでにベイコンのように、近代の自然観とそれに基づいた近代科学のゆく末を、手放しのオプティミズムをもって見ているわけにはいかない。近代の機械論的自然観がもたらした人間と自然との乖離を乗り越えて、再び自然全体と人間との調和、自然の一部としての人間を改めて定位しなおす新しい思考が開始されなくてはならないだろう。

2014年6月2日月曜日

STAP効果

発信箱:STAP効果=青野由利は次のように言う。
STAP騒動がここまで拡大した背景にも、そんなギャップがあったのではないだろうか。
全くである。科学信仰が崩れるいいきっかけである。
材料科学が専門の岸輝雄さんの言葉には、異分野への釈然としない思いがにじむ。
解釈が一般化していないこと、「世間」を狭くし、ガラパゴス化へ進む体制が在るのでは・・・
これはほとんど、特性化している?
人々の科学的知識の底上げや、急速に進む生命科学への理解を助ける効果もあるはずだ。
これは、我々一般人への警告でもある。責任はシェアしましょう。
過信を慎み、ポジティブシンキングで、ドアはノックして科学をたずね(訪ね、訊ね、尋ね)てみることだ。
最近、政治、経済、実業界で不正・擬装が多発し、社会システムの信頼性が揺らいでいる。
韓国でフェリーが沈没し、過積載が問題になり、韓国の政財界は大揺れである。
過積載、偽装をせざるを得ないほどに社会的な需要(欲望)が肥大している、アンバランスな現実を直視しなければならないのではないだろうか。
韓国では民衆の怒り(私憤)が、公憤・義憤となって、社会制度の根幹を揺さぶっている。
「浄化作用が機能し始めた」といえる。これが正しく機能し、清浄化につながることが望まれる。
一方、日本はどうであろうか。
「船頭多くして船山に登る」。これを多くで力を合わせると船も山に上げられるという意味だと思っている若者も多い。》と毎日新聞は伝える。本末転倒、支離滅裂である。
そもそもから始めなければならない…・

2014年6月1日日曜日

幸せの学び

幸せの学び:<その97> あるブラジル移民=城島徹に出合った。

幸福論として、ページを設け、所感をまとめていく。
他人は何を仕合わせと感じ、考えているか、体感的理解を深めたい。