挨拶

ご同輩の、ご訪問、大歓迎いたします。
「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)
徒然なるままに観想を記しています。

2014年7月22日火曜日

日本らしいサッカー

「日本らしいサッカーができなかった」「日本の強み発揮できず」が表現するもの、それが弱みだ。
こう表現する限り、問題がどこにあったのか、具体的な問題点を隠蔽する。
「日本らしいサッカーができたけど通じなかった」「日本の強みを発揮したけれども相手がそれ以上に強かった」という表現にしたら、もっと正確に現実を捉えること、彼我の力の差を捉えることができるのではないだろうか。反省の中に、対戦相手の姿がない。相手は「想定外」であったのだ

いつまでも、仮定の中でプレイしないで、体験に基づき反省する必要があるのではないか。
我々はよく反省する。しかし、都合のいい様に反省する。猿真似だ。経験を活かした反省にならない。
常に理想を基準にし、現実を夢想する。
「理想通りにいけば、勝てたのに」との弁は、いつ現実に基づいて試合をするのかと疑いたくなる。
反省する時は、現実に基づいて、誰が、どこで、何をしたことが原因で、ゴールに結びついたと具体的なものにしなければならない。
当然、そのような反省はあったうえでの会見発言であろうが、何か現実感に欠けている。

理想として、目指したものはあった。それの完成度はどのようなもので、対戦相手によって、どれだけの選択肢を用意していたのか。図上演習が、机上演習になり、実戦練習になり、戦術を具体化する。
プロセスは同じでも、成果は異なる。人間性が現れてくる。
個人の技量と戦術のマッチング。スマートだけでは通じない。
野外スポーツは元々ワイルドなのだ。この両立をどこまで徹底できるか。

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