5日前に、この稿を起こし、下書きとして保存した。
本日の「
(耕論)STAP、逆風の科学界」に刺激され、公開することにする。
「
論文倫理:大学で強化 『コピペは誇り捨てる』 自覚促す必修授業も」という。
どこまでやれるか
「擬似大学」
大学の機構、カリキュラムがコピペであることを踏まえて推進することだ。
インターネットのコピペと、文章の引用と、方法の引用と、その境界をどうするか。
明治以来、西欧科学技術をコピペしてきたことを忘れてはならない。
それが、電子技術によって、みごとに浸透した、その成果である。
これを汚染と呼ぶこともできる。當に《進化とは、汚染のこと》なのである。
マスメディアが、マスプロ教育が大量にコピーされた人間をつくったのではなかったか。
学校教育そのものが、コピーである。
文化、文明は、飼い慣らしシステムであり、慣習は仕来りをコピーすることで伝えられた。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」で西欧文明を一心不乱にコピーしてきたではないか。
結果として、「ミイラ取りがミイラ」になって、後から附いてくるミイラを忌避する。
そうした異形を先導した偉業人が異形の人を排除する。
コピーが悪いのではなく、貼り付けるとき、論理性を破壊する、構成に問題があるのである。
系統だったコピペ、「習熟する」ことはこれからも必要である。
簡単にコピペすることの問題は、間違い、誤解が起こりやすく、論理の破綻のリスクが高いことにある。その破綻を見抜けなくなることが問題になる。
実験の場合には、偶然に結果が出ることがあるが、それを確実な方法・手順として確立するところが科学である。確実な方法とは再現性であるが、それは今、確率の問題として捉えられている。
小保方氏が求めているものは、何なのか。
「世界で初めて、STAP細胞を実験室で作った」という名誉なのか、「STAP細胞を作れる方法を見出した」という名誉なのか。
事故に遭ったことの主張と事故が起きるメカニズムについての主張が異なるようなものだ。
今回の双方の主張にこのような隔たりを感ずるのは私だけだろうか。