「読売新聞」の社説に、「『ゆう活』推進効率的に働いて残業を減らそう」というタイトルを見て思った。
「ゆう活」と「効率的」という言葉の併記に違和感を感じた。
私の中では、「ゆう活」という言葉からは、夕餉のひと時を家族と過ごす、ゆったりとしたイメージが浮かんだ。そこには、効率的に時間を消費するイメージはない。
「効率的に時間を過ごす」ということが、“今、ここにある”「豊かさ」を排除していると感じたからだ。
その中に「朝型勤務を広め、ずるずると長引きがちな夜間の残業を減らす」とあるように、生産性の高い時間をいかにして仕事に割り当てるか、そのための方策である。
生産性・効率重視の考え方に問題はないのだろうか。
生活の大半を、労働に費やし、労を癒す時間がなくなっている、とは言えないだろうか。
「ゆう活」という表現を目にした時、シニアの活性化、あるいは社会参画促進かと思った。
なぜなら、毎日新聞に、「人生は夕方から楽しくなる」という特集がある。その中の「夕」と結びついたからである。
「女性の社会参画」が喧伝されている程には、「シニアの社会参画」は求められていない。
なぜだろうか。
鍵は「効率的」という観念にあるように思える。その分母は、時間である。
また「能率的」という言葉もある。今日では、「能率」も「効率」も同じような意味合いで使用されている。「能率的」という言葉が、「時間」に絡め取られて、「時間」を分母にしてしまったように思える。
「時熟」という言葉がある。ハイデガーの用語らしい。難しいことは分らない。
感じ取れることは、人を分母に「時が実るを待つ」ということではないだろうか。
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