挨拶

ご同輩の、ご訪問、大歓迎いたします。
「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)
徒然なるままに観想を記しています。

2015年9月2日水曜日

なぜ有名メディアの買収劇が起こっているのか

なぜ有名メディアの買収劇が起こっているのか」は、「メディア」がITに絡め取られていくことを暗示する。
《ニュースの変化の全体像を見て、私たちと「ニュース」の関係にどんな影響が及ぼうとしているのかを考える。》
「スマホがニュースの受け取り方を変えた」。
《2000年に約5370万部だった新聞発行部数は、14年には4536万部に落ち込んでいる》。
「日経のFT買収劇」に象徴されるように、
《ニュースを配信する側の新聞社や雑誌社でも大きな動きが相次いでいる》。 
《17年には電子版の売上高が紙を上回ると予想されるほど、電子版の普及は進んでいる。日経の目的は、FTというブランドに加え、このノウハウの獲得だったという見方もある。》
ウェブサービスの世界では「利用者100万人が一つの試金石」とされている。

《米国には、アップルやグーグル、フェイスブックといった巨大なITプラットフォーマー(運営事業者)が存在しているが、これら企業のニュースへの取り組みも注目しておく必要がある。》のだ。
メディアの今後の動向の鍵を握るのは、ITプラットフォーマーだ。先進技術が、メディアの姿を変える。ITを批判する力は弱くなれば、深刻化する『脳内汚染』を削減する力は働きにくい。
しかも用語として、米語が主流となり、流通量・適用範囲共に拡大する。相対的に、日本語の流通量・適用範囲は限定されていく。
メディアと日本・日本人の将来についてまとめてみた。

2015年8月18日火曜日

待つこと 『暴走老人!』を読んで

高度情報社会は、少子高齢化社会で、成長力が低下し、高福祉低負担の社会保障制度を維持することが難しく、想定外の低福祉・高負担の社会環境の下に生活することになった。

現役時代に描いていた老後と現役を離れた実際の老後のギャップに老人は戸惑っていると『暴走老人!』はいう。社会環境の変化は急で、「500年の変化が50年で押しよせた」といわれるほどなのだ。

「時間」「空間」「感情」

それに伴い、「時間」「空間」および「感情」秩序も急激に変化している。
その変化が受容できる閾値を超えたとき、暴走老人が顕れた。
暴走する社会が生み出すのは、「暴走老人」だけではない。暴走する若者も生み出している。

暴走する社会は、適応不能と共に過剰適応の問題を生じさせる。
社会空間、社会時間、社会感情によって、人は秩序化され、育成されている。
暴走老人の出現は、「目に見えない制度やルールによって新たな秩序が構築されている」ことを示唆する。

バーチャル秩序である。バーチャル秩序は明文化されない。暗黙知なのである。
それは透明性をクリアした、公明正大なものとして、市民権を得て、社会基盤の中に組み込まれていく。
『暴走老人!』は一つの例を挙げる。
ジョージ・リッツアは『マグロナルド化する社会』(早稲田大学出版部)で、ファストフード店が社会にもたらしたさまざまな変化について、次のように述べている。
ハンバーガーを求めて一列に並んでいる客たちやドライブスルーのラインに並んで待っている客たち、そして食品を作っている従業員たちがしばしば感じているのは、自分自身が作業ラインの一部になっているという感覚である。(中略)
こうした気持ちが強いと、自分の前で財布を覗きながら一向に支払いを終えようとしない高齢者などがいた場合、苛立ちのもとになりかねない。その高齢者をラインを乱す出来の悪い部品のように感じる人がいても不思議ではないだろう。(中略)
だがそうした場面では、私たちは他者に思いやりのある理解者としてではなく、時として敵対者となる。一番の問題はここにある。スムーズな流れが支障をきたすとき、多くの客がラインを動かす立場をとり、ラインそのものと化して、不揃いの部品を排斥するような情動を覚え、行動する。しかも無意識のうちに。
顧客と店の協業によって成り立つシステム。
顧客も店も社会システムを構成する要素なのだ。

「待つ」という事

生活が「待つ」から「待たされる」へシフトし、「待つこと」を意識し始めた二〇世紀は、「待つこと」を無駄として排除し、「待つことの出来ない人間」を創り出した。

待つことは、身体に訊くことにであり、体調を整える、体勢準備期間である。
身の回り、感情を整えるための期間なのである。その期間に、微妙な器官・機関・基幹調整が行われ、体勢が整えられるのだ。それは空間秩序・感情秩序を整えるための、非常に大切な時間なのである。
生命は、本来全体最適を志向する。「待つこと」によって、人はいろいろなことに気づくのである。その気づきが配慮として、奏効するのである。「期待」は、期(機)が熟すことを待つことにある、その期間が長ければ、期待も高まるのである。「待つこと」ができない人の期待は小さいものにならざるを得ない。「大志」を養育することはできないのである。
効率性・利便性を追求する社会は、社会的時間によって規制され、個人の身体的時間が無視される処に問題が生じる。

待つことができなくなった人は、心の余裕(豊かさ)を失った。
立ち止まって考えることもしない。思考停止状態、思考する時間を失っていることに気づかない。
認知症(認知障害・適応障害)が増加するのも当然の成り行きである。
国内外を問わず、多種多様な難民が増加しているのも社会革新の帰結である。

2015年7月30日木曜日

空飛ぶロボット、ドローンは、新たな脅威か

ICTの進化は目覚ましい。生活環境が急速に変化している。
「便利」という大義名文の元に、我々の生活領域は変えられている。
穏やかな朝であったのに、突然飛行機が飛び込んでくる。
生活が暗転するだけでなく、人生がそこで終わってしまう。
飛行機が墜ちることを忘れていた。そしてまた、安全が侵されていることを忘れていた。
「自律型人工知能兵器:開発禁止へ署名 研究者ら1万人以上 - 毎日新聞」の記事をクリップした。そこでは、《AI兵器を火薬と核兵器に次ぐ第3の革命と位置付け》ている。
ドローンが、そもそも第一次大戦のころから軍事的な研究がなされていたことを考えれば、AI兵器の登場は当然考えられることである。
さらに、《核兵器のように入手困難な原料なしで大量生産できる》という。同時に、生物化学兵器と合体させることは簡単なことであろう。
「非常に便利=非常に危険」ということを銘記すべきである。
予測と制御この二つが相俟って正しく機能させることができる。
リスク管理を適切にやることの出来る社会倫理の構築が喫緊の課題となったが、
今、”文系見直し”で起きていることは、社会倫理の構築を無視するものではないだろうか。

2015年7月28日火曜日

技術文明について

スイスイ郵便配達 スイスで試験開始、山岳地帯で効果」、「ドローンで人命救助訓練
等の記事を見ると、先端技術が、社会を変える素晴らしさを感じる。
さらに、タンザニア人にとってなぜケータイが必需品になったのか?等の記事を見れば、技術の力、恩恵には異論をはさむ余地はないように見える。
されど、先端技術は、軍事技術として開発されたものである事を忘れてはならない。
それは「変」の時を想定しての産物である。その技術を応用していることを忘れてはならない。
現在民生用に利用されている技術の中には既に昔日の軍事用技術を超えるものは多い。
それが軍事に転用される可能性は否定できないのである。
タンザニアの例ではないが、技術は、未開地の生活を劇的に変えていく。その影響力は先進諸国における比ではない。効果は抜群である。同時にその副作用も大きなものが予想されるのである。
技術移転には、相応の社会制度が必要になる。特にグローバルスタンダードの潮流の中ではそれに適合する仕組み・制度御構築が喫緊の課題となる。そのギャップが大きいほど投資が必要になり、先進諸国の格好の餌食となる。お為ごかしの開発援助のもとに、先進諸国が望むように、そ奥には開発、変装させられる。人々は、次々に流れ込んでくる豊かな生活物資に目を奪われ、生活様式を洋式に変化させ、潮流に適応することを喜ぶ。こうしてその国の文化は、歪められ、擬装されることになる。結果として、先進技術は、便利という名のもとに古来の文化・伝統を侵食・汚染していく。
それが進化であるとアメリカ文明は宣明する。極論であるが構図としてはそのように映る。
ドローンやロボットの導入は、我々の生活を劇的に変化させる。
得るものが多い代わりに、失うものが有る事を忘れてはならない。
我々の社会にはどのような変化をもたらすのであろうか。

2015年7月27日月曜日

事故が起きて初めて気づく障害

昨日、小型飛行機が住宅地に墜落した。以前から危険性が指摘されていた。
膨張するテリトリー感覚とその傍若無人な実践が招いた惨事である。
沖縄の「基地問題」がすぐに頭に浮かぶ。沖縄では、民間機ではなく、軍用機である、
アメリカニズム・プラグマティズムへの隷属、そこに問題の核心があるように思える。
基地問題をはじめとし、今領域・領海問題が各所に浮上している。境界に立てられるのが、防御柵であり、防衛基地である。
国(全体)と地方(部分)との関係が深まるにつれ、立場の違い、溝も深くなっていく。
自暴自棄になればハラスメントが起きる。
ハラスメントと言えば、権利意識高揚の反映か、「パタハラ」というのが現れた。
まさに「雨後の筍である。
権利意識の高揚の前に、「対等」「公正」「フェア」ということについて思慮を重ねたい。

2015年7月26日日曜日

鶴見俊輔氏の死を悼む

本当に偶然である。鶴見俊輔氏の名前を、改めて想起したのは、7月7日、手塚治虫の『時計仕掛けのリンゴ』を手にしたことによる。その中の一つ、「ペーター・キュンテルンの記録」の著作者が鶴見俊輔氏であるとの付記を見てである。
機械化する現代社会を想いながら、スタンリー・キューブリックが映画化した『時計仕掛けのオレンジ』というのがあったななど考え、手塚治虫氏に『時計仕掛けのリンゴ』なる作品があることを知った。そして早速手にしたわけである。
その後、吉見俊哉『親米と反米』で「鶴見良行という実践」を読み、親子二代すごいなと思っていた。
訃報を知り、その後の多くの追悼記事の中で、「東大が大っ嫌い」という記事を見て「親子三代」であることを知った。
《東大が嫌い。成績が一番のやつが徹底的に嫌い。哲学者鶴見俊輔さんの信条だ。父は東大出の政治家で、一番に執着した。鶴見さんの見るところ、一番の人間は状況次第で考えをころころ変えて恥とも思わない》には共感する人も多いのではないか。

2015年7月22日水曜日

国際障害者ピアノフェスティバル[7月22日(水)/東京文化会館]

今日は盛夏である。外村さんから誘われ、訪れることにした。

開場0時30分/1時から開会式・審査演奏/4時30分から特別ゲストによる演奏/7時から表彰式・受賞者演奏どのような場が現出され、どのような出会いが生まれるか、楽しみである。