挨拶

ご同輩の、ご訪問、大歓迎いたします。
「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)
徒然なるままに観想を記しています。

2014年6月4日水曜日

自然について

『現代科学思想事典』伊東俊太郎編によれば、

ギリシアにおける自然

一般に「生まれる」という言葉と結びつくものと考えられている。そこでは生まれ、成長し、衰え、死するものが「自然」であった。つまり「自然」とはそのうちに生命力を有し、自らからの力により生成発展するものであった。従ってそれは近代の「自然」概念の如く「他から力を加えられない限り、その運動状態を変えず、静止するものは永久に静止する」(ニュートンの第一法則)ことを本性とする自然ではなく、むしろアリストテレスがその「自然学」」の中で定義したように「自らのうちに運動の原理をもつもの」が自然であった。
このように自然自身が一種の生命力を持ち、生成発展の原因をもつ――そのように自然の素材が生命をもつという意味での「物活論」が、ギリシアの少なくとも支配的な自然観であった。
古代ギリシアにおいては、近代におけるように死せる無機的自然ではなく、生命ある有機的自然が「自然」の原型であった。このようなギリシアの自然観においては、「自然」は何ら「人間」に対立するものではない。人間はむしろそのような生命的自然の一部として、それに包み込まれている。自然は人間に対し異質的対立的ではなく、むしろこれと同質的に調和する。神ですらそこでは「自然」を超越するのではなく、それに内在的である。実際「万物は神々に満ちている」(タレス)のであり、「踏み入ればそこにも神々は住む」(ヘラクレイトス)のである。
近代におけるように、我々に全く無縁で異質的なこの自然に、外から「実験」という「拷問」をかけ、それを「支配」するのではなく、我々に親縁な同質者として、それを内から「直観」し「理解」することである。そしてそこに直観し把握さるべきものは、外的現象としての自然の「法則」ではなく、そのものの内的本質としての「形相」であった。結局ギリシアにおいては、自然は人間や神をもその中に包み含む生きとし生ける統一体であって、このような一種の「汎自然主義」を基礎としていたといえよう。

中世における自然

ところが中世キリスト教世界に入ると、上述したようなギリシアの「汎自然主義」は粉砕され、神と人間と自然との截然たる階層的・異質的な秩序が現れてくる。そこでは自然も人間も神によって創造されたのであり、神はこれらのものから全く超越している。
そしてこの三者はいずれもそれぞれ独自な役割と活動をもちながら、下位のものは上位のもののために存在する。人間は神のために存在し、自然は人間のために存在する。人間はこの中間にあって知性により神を知り、理性により自然を認識する。この中世の自然観においては神・人間・自然がこのように階層的に分断されることによって、先ず神は自然の一部ではなく、これを超越する。自然に内在していた神は消えたなくなり、「大いなるパーンは死んだ」のである。ついで人間もまた自然の一部ではなくなった。自然はもと人間と同じく神によって創造されたものとして、今やそれ自身としては人間の全くあずかり知らぬ「外なるもの」となる。人間は自然と同質的なものではなく、それから疎外される――というよりも自然を越え出てその上に臨み、それを支配し利用するものとなる。ここに、自然を人間と全く独立無縁なものとしてこれを客観化し、この「気心の知れぬ」第三者に、外から実験的操作を加えて白状させ、これを純粋な他者として科学的に把握しようとする近代の実証主義的態度の形而上学的源泉が看て取れるのである。この意味では確かに「キリスト教の時代の帰結が自然の機械論化であり、キリスト教が実証科学と技術を可能としたのである」(ベルジェフ)。もちろん中世思想は一挙にしてこのような帰結に達したのではない。しかしそれがギリシアの「汎自然主義を破り、自然を人間と同質的なものとしてではなく、人間とはまったく異なる独立な第三者としたことは、自然から人間を追放し、これを専ら機械論化してゆく近代の自然観を準備したことは疑えない。

近代における自然

上述のように自然は神によって人間に対し、第三者として定位された。今や自然は何ら人間との類推を許されぬそれ自身の独立な存在となった。のこの「非人間化」ア推し進められる時、それは軈て自然から人間的要素としての色や匂いなどの「第二性質」やさらには「目的意識」などを追放して、専らこれを「大きさ」「形」「運動」などの自然自信の要素において、因果的に分析してゆくという立場に至る。こうした自然の観方に、ルネサンス以降復活したギリシアの数学的方法が結びつくならば、それは既にほぼ近代の自然観が成立したといってよいであろう。つまり本来人間の側の性質であるところの「質」を捨象し、専ら「量的」関係だけで、自然を客観的因果的数学的に把える「機械論的自然観」がこれである。中世においてここに至る思想的素地がすでにあったとはいえ、このような徹底的な反省は近代哲学の祖デカルトを待たなければならなかった。デカルトは若くして成功を修めたその『幾何学』に彼の「自然の機械論化」の鍵を見出し、ここに用いられている方法を数学的対象のみならず自然界の事物一般にも適用し、あらゆる物体を一様な幾何悪的「延長」として把握し、それらの物体の量的関係のみを求めてゆこうとした。この意図を遂行するために、デカルトがまずなさなければならなかったのは、「実体形相」の消去――つまりアリストテレス的な霊魂〈プシューケー〉のスコラ的翻訳である。「生命原理」を物体から除去することであった。彼にとってこのように物体から霊魂的・心的なものを取り除くことは、同時に精神から一切の物的なものを取り除くことであり、ここに彼の徹底した二元論が成立する。ここでは心とか霊魂とか呼ばれてきたものは「純粋椎」として純化され、同時に自然は単なる延長として一切の人間的生命的要素を欠いた数学的対象となる。ここに古代ギリシアの有機的自然観は、近代の無機的自然観にとって代わられ、physisの訳語とされたnaturaは、今やnascor(生まれる)との連関を断ち切ることとなる。単位「形」「大きさ」「運動」という延長的な面からのみとらえられ、それ自身色も匂いもない数学的物理的自然が、本来の自然であって、生命的自然と呼ばれるものは、前者がある特別な配置をとった結果に過ぎないのである。このようなデカルトにおいて典型的に示されている近代の機械論的自然観は、その後根本的には変わらず、依然として我々の今日の科学的思考を嚮導しているといえよう。

自然の支配

近代の自然観を問題とするとき、右の「機械論的自然観」と並んで、もう一つの特長を挙げておかねばならない。それは人間によって「支配され利用さるべき自然」という新しい概念である。既に述べた用意ぎっりしあにおいては自然は人間により整復さるべき「対立者」ではなく、かえって人間と同質のものとして内から直感し理解さるべきものであった。それは理論の対象であっても支配の対処ではなかった。しかし中世キリスト教世界では、自然を本来人間に仕えるものとして把え、これを技術的に利用しようとする功利的・実践的自然観がすでに十二世紀以来芽生えていた。しかしこのイデーを最も自覚的かつ雄弁に表明したのはデカルトと並んでもう一人の近代哲学の祖とされているフランシス・ベイコンであった。彼において自然はまず未知なる第三者として、経験に即して実験的に試され、そのことにより自然は「解剖」され、それによって得た知識に基づいて支配され、現実に利用さるべきものであった。これが「知は力である」といった時の彼の新しい実践的知識観であり、「自然はそれに服従することによって征服される」といった時の自然に対する新しい態度であった。彼はその著『学問の進歩』において、自然についての学問を自然のなかの原因だけをたずねる「思弁的」科学と、逆に結果を生ぜしめる「操作的」科学とを区別したが、この後者の概念にはギリシアには存在しなかった自然の実践的支配のイデーが表現されている。
彼にとって科学とは単にアリストテレス的な観相〈テオーリアー〉ではなく、自然に働きかけ、これを支配しようとする実践的な知識であり、このためには「自然の物体をむき出しにし、人工的に変化させ処理する技術」としての「実験」が重んぜられる。これによる自然の統御とその利用により[人類の欠乏と悲惨とを克服する一連の発明を生み出す]ことを彼は企図したのである。
このようなデカルト=ベイコン的な近代の自然観は確かに多くの成功をおさめ、人類の物質的条件を根本的に改善し今日の科学技術時代を現出せしめている。この意味でそれは一定の積極的な役割を果たしてきたといえよう。しかし今や外ならぬこの近代の自然観がそのようなプラスの面だけではなく、「公害」その他のマイナスの面をも生み出している当のものであることを否定することはできないだろう。我々はすでにベイコンのように、近代の自然観とそれに基づいた近代科学のゆく末を、手放しのオプティミズムをもって見ているわけにはいかない。近代の機械論的自然観がもたらした人間と自然との乖離を乗り越えて、再び自然全体と人間との調和、自然の一部としての人間を改めて定位しなおす新しい思考が開始されなくてはならないだろう。

2014年6月2日月曜日

STAP効果

発信箱:STAP効果=青野由利は次のように言う。
STAP騒動がここまで拡大した背景にも、そんなギャップがあったのではないだろうか。
全くである。科学信仰が崩れるいいきっかけである。
材料科学が専門の岸輝雄さんの言葉には、異分野への釈然としない思いがにじむ。
解釈が一般化していないこと、「世間」を狭くし、ガラパゴス化へ進む体制が在るのでは・・・
これはほとんど、特性化している?
人々の科学的知識の底上げや、急速に進む生命科学への理解を助ける効果もあるはずだ。
これは、我々一般人への警告でもある。責任はシェアしましょう。
過信を慎み、ポジティブシンキングで、ドアはノックして科学をたずね(訪ね、訊ね、尋ね)てみることだ。
最近、政治、経済、実業界で不正・擬装が多発し、社会システムの信頼性が揺らいでいる。
韓国でフェリーが沈没し、過積載が問題になり、韓国の政財界は大揺れである。
過積載、偽装をせざるを得ないほどに社会的な需要(欲望)が肥大している、アンバランスな現実を直視しなければならないのではないだろうか。
韓国では民衆の怒り(私憤)が、公憤・義憤となって、社会制度の根幹を揺さぶっている。
「浄化作用が機能し始めた」といえる。これが正しく機能し、清浄化につながることが望まれる。
一方、日本はどうであろうか。
「船頭多くして船山に登る」。これを多くで力を合わせると船も山に上げられるという意味だと思っている若者も多い。》と毎日新聞は伝える。本末転倒、支離滅裂である。
そもそもから始めなければならない…・

2014年6月1日日曜日

幸せの学び

幸せの学び:<その97> あるブラジル移民=城島徹に出合った。

幸福論として、ページを設け、所感をまとめていく。
他人は何を仕合わせと感じ、考えているか、体感的理解を深めたい。

2014年5月31日土曜日

いじめは共同謀議

長崎・中3自殺:一部同級生「みんな共犯者」 当日朝、教室で騒ぎに−−学校調査

「過負荷がアヤマチのもと」と題し、《怠惰とナルシシズム》がその元凶であること、それは社会的過負荷によって引き起される。その典型的なものとして「いじめ」があることを指摘した。
従って、「いじめ」は当事者は勿論であるが、われわれ一人一人が対決すべきことを回避することによって生み出されたものであるということである。冒頭の記事の中に
  『みんな共犯者だよ』と言っている生徒がいた
  『自分たちのいじめのせいで死んだ』と認識していることを示す重要な言動だ
とあるのは、ホンネは腐っていない証拠だ。
「いじめ」には必ず何らかの隠蔽がある。
隠蔽をつくる原因は、迷惑の意味の履き違えにある。
「船頭多くして船山に上る」を「力を合わせればどんなことでもできる」と解釈する間違いをどう質すか、過積載で沈没した韓国船はチームワークが悪いことになり、過積載をすること、法を犯すことが悪いことには至らない。
いじめの問題も、学校や生徒、父兄などの当事者のチームワークの問題として捉えるのではなく、
教育自体が過積載になり、生徒が狂気には知らざるを得ないほど、衝動的に行動する状況を教育システムが創り出している。と考えることはできないだろうか。

2014年5月30日金曜日

民主主義下の合従連衡、数の論理で、量質転換を目指す?

2010年4月に結党した「たちあがれ日本」に石原新太郎が参加し、2012年11月13日に「太陽の党」に改名、2012年11月17日、日本維新の会に合流し、翌年1月19日、橋本・石原の共同代表制に移行した。

◆石原氏、分党を表明「結いとの合流、合点いかない」
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2901C_Z20C14A5000000/?n_cid=kobetsu

◆石原氏が会見「結いとの合体、賛成できない」
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2901J_Z20C14A5000000/?n_cid=kobetsu

◆石原氏が新党結成へ 橋下氏側「維新の党名継承」
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2900C_Z20C14A5MM0000/?n_cid=kobetsu

◆維新が分党を決定、石原新党に15~20人参加http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS29041_Z20C14A5MM8000/?n_cid=kobetsu

■蜜月2トップ「決別」 橋下氏・石原氏、維新分裂で会見
 http://news.asahi.com/c/afhYbo4VgAeo5yaz
またまた離婚騒動である。予想通りの離婚である。
「敵の敵は味方」の合従連衡であった。これからまた新たな婚約を結ぶことになる。
大事なのは国民との婚約である。それは既に破棄されているのか?
我々はこの離婚劇に損害賠償を求めるのか、それとも祝儀を出すのか、いずれにせよ、出費であることに違いない。

「船頭多くして船山に登る」。これを多くで…
確かに、我々は現状に合わせて意味を理解しようとする。このように若者が故事の意味を取り違えるのも、船頭が船長になり大型機船を運転するようになると、水陸両用、山にまで登る船を想像することも可能になった。バーチャルリアリティでは、戦艦は宇宙を自由に遊泳できる、そしてそれはチームワークの勝利と漫画教育を受ければ、上記記事のような解釈も当然のこととしても不思議ではない。
「山に登ろう」とする若者を中心とする〈維新〉と「山には登山電車で」と若者を質そうとする〈太陽〉では、信念が違う。「北風と太陽」の話が逆転しているように思われる。
どちらもどの山に登るのかはっきりしない。
維新、2人が越えられなかった壁

分党という別れ方 政党助成金に群がる党 成果配分は公然と行われる擬装。
偽装が傲然と行われるようになり、表情は厚顔となる。頭は頑固になる。
官憲のトップに立ち、擬装を取り締まる?
ねじれは、必ず偽装を生み、偽装は必ず、悪を為す。
悪も善も熱処理し、消毒し、生成し、再利用する。
人間はそうはいかない。しかし、量質転化を図らなければ汚染処理は進まないのである。

物理的汚染処理と精神的汚染処理。
要するに、民主主義なるものは、共同謀議に全員を巻き込み、「我は他人よりちょっとよかれ」で、善にも悪にも加担しない中庸を求めるものとなる。
善悪の彼岸に至る質量転化には相応の環境が必要なのである。

2014年5月22日木曜日

自省:思考停止せず

袴田事件:元裁判官「死刑ありきで自白採用」 物証弱さ認識 - 毎日新聞

袴田事件については、「「袴田事件」について思うこと」で述べた。
その後、『平気でうそをつく人たち』を読み、「自省」することの大切さを改めた。
あらゆる人間の悪の根源が怠惰とナルシシズムにある》と著者ペックはいう。そして、「集団ナルシシズム」について次のように言っている。
《この凝集力として最も大きな力をもっているのが、おそらく集団ナルシシズムだと思われる。この集団ナルシシズムは、その最も単純かつ最も心地よい形として、集団のプライドという形で表出される。グループの構成員が自分の所属するグループに誇りを抱くと同様に、グループ自体が自分のプライドを高める方向の動きをする。》
この「集団ナルシシズム」から脱却するには、個人の「自省」と「浄化」が必要である。冒頭の記事の中で、
熊本さんは「5点の衣類が出てから裁判長の考えが変わったようだ。(審理に与えるインパクトは)大きかった」と証言。自身は、衣類発見のタイミングなどが不自然と感じ、袴田さんとは別人のものと考えていた、と振り返った。
とあった。
裏切り者のレッテルを張られることを覚悟しなければならない。
それは相当に勇気がいることである。臆病ではだめである。
付和雷同せず、裁くということは一大事なのである。
袴田事件:48年 「捏造」生んだ「信念」 「犯人視」捜査記録明記 - 毎日新聞

2014年5月19日月曜日

がんの診断と自殺および他の外因死との関連について

国立がん研究センターの多目的コホート研究によれば、
《がん診断後1年以内の自殺および他の外因死のリスクが有意に高い》ことが判ったという。《がんになっていないグループの自殺のリスクおよび他の外因死のリスクに比べ、がん診断を受けたグループの1年以内の自殺のリスクおよび他の外因死のリスクはともに約20倍でした。一方、診断後1年以上経過した自殺のリスクおよび他の外因死のリスクは、がんになっていないグループと違いがみられませんでした。》という。、
がんは日本人の2人に1人がなり、死因の約3割を占めるが、治療技術の進歩などで、5年生存率は03〜05年の統計で5割を超えている。特に早期で発見された時の5年生存率は約9割で、必ずしも死に直結する病気ではなくなった。このため国が12年に定めたがん対策推進基本計画では、死亡率の減少と同時に「がんになっても安心して暮らせる社会の構築」を全体目標に掲げている。
という。
  参考資料(厚生労働省平成24年(2012)人口動態統計(確定数)の概況
自殺を減らすには、リスクを低めること、正しい認識が必要ということである。
正しい認識とは、患者だけの問題ではない、仕組みの中にある認識である。
認識の違い、信念の違いが、信頼感の障碍に??
医療技術の進歩と死亡率の低下を正しく認識することは勿論であるが、最も身近にいる、医者や看護士の認識はどうだろうか。