挨拶

ご同輩の、ご訪問、大歓迎いたします。
「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)
徒然なるままに観想を記しています。

2010年12月6日月曜日

国との一体感

「坂の上の雲」司馬遼太郎が伝えたもの(谷沢永一著)を読む。
「「明治の庶民にとってこのことがさほどの苦痛でなく、時にはその重圧が甘美でさえあったのは、明治国家は日本の庶民が国家というものにはじめて参加しえた集団的感動の時代であり、いわば国家そのものが強烈な宗教的対象であったからであった」(p141)とある。
「不平等条約の撤廃、西欧と肩を並べる国力を持つ」ことが、植民地化を防ぎ,独立を維持するための唯一の道であった。国の生死と個人の生死が直結した状況であった。国の独立を維持するという目的と個人の行動目標が直結していたのである。国の荒廃が一人ひとりの肩に掛かっていることが実感できたのであった。
徴兵制度によって、強制的に国との一体感を味わうことになった明治の人々には、強制による重さよりも「国民国家」という新しい制度によって、より広い活躍の場を与えられた昂奮(喜び)の方が強かったのであろう。
明治維新を可能にした"武士道"が「公に殉ずる」ことを生き甲斐,働きがいと考える道徳観を国民全般に醸成したといえる。
日清・日露戦争期までの日本は世界的に帝国主義が急速に拡大する中で,独立を維持するためにかなり、まともに、対応していたように思える。
日露戦争での日本の勝利が西欧諸国にアジアの力に対する耳目を開いたことは確実であり、その後のアジア対応戦略に変化を与えたことは間違いないであろう。
それまで三〇〇年間、戦争に明け暮れた西欧の老舗の帝国主義のまえには、理想を掲げ、全アジアを代表する気概に燃えた、「明治武士道」の気概である。
しかしながら、西欧諸国にとって新参者の日本の活動は滑稽としか見えなかった。
日本は、イギリス人を中心とする西欧諸国にイロコワ族として利用されたのである。(「坂の上の雲」より)
「西欧人が人権を認めない」つまり「独立を認めない」アジアを植民地化することは暗黙の了解であった。その起源はウェストファリア条約にまで遡るといわれる。

そこに「アジアの独立、人権を叫ぶ」日本が登場したのであった。
それがなぜ、一九世紀後半になったのか。この世界史への登場は明治維新という、無血革命によって達成された。当時、アジアで独立を保つことができたのは、日本だけであった。
他はすべて西欧の植民地となっていたのである。
日本はアジアの覚醒を願い行動したことも事実である。
日本一国では心許ない、しかし、アジアは覚醒しなかった。アジアの覚醒にはさらなる経験が必要であったのである。
第二次世界大戦後、漸くアジアの覚醒はその経済発展とともに始まっている。

0 件のコメント:

コメントを投稿