挨拶

ご同輩の、ご訪問、大歓迎いたします。
「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)
徒然なるままに観想を記しています。

2014年10月20日月曜日

イスラム国のゆくえ

以前、「アラブの春」についてまとめた、その後も「アラブの春」は続いている。
そして暑い夏の訪れと共に「イスラム国」の出現を見ることになった。
「イスラム国」が「アラブの春」の流れの本流ではないが、出現の要因は、アラブの春と重複するところが多いのではないだろうか。
イスラム国の行方は、近代化の行方でもある。
西欧近代化は、今日グローバル化、グローバリズムと名を変えて進行中である。
そのスピードは、20世紀におけるそれスピードの比ではない。
現在、世界で起きている多くの問題は、この近代化が創り出したものである。
地域動向がグローバルに進む近代化の動向に添ったものであるとき、そこには春が訪れ、対抗するものであったとき、そこには紛争が起きるのである。
グローバリズムへの隷属を嫌うアラブの意地もある。
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬアラブ魂」というところであろうか・・・
「イスラム国」の動向をまとめ、その行方を追うことにする。

2014年10月16日木曜日

アメリカ社会のゆくえ

「アメリカ社会のゆくえ」=「現代文明のゆくえ」か?
「『アメリカ社会のゆくえ』と『日本の選択』」についてまとめてみた。

以前マイケル・ムーアの『シッコ』を観て、アメリカ医療制度では、救われなかった患者がキューバの医療制度の中で救われる現実を知り、アメリカ医療の惨状、民営化・営利化する医療制度の限界を知った。
『ルポ 貧困大国アメリカ』を読み、コーポラティズム・新自由主義のすさまじさを知ると同時に、日本では、そうした行動が起こらないだろうと期待もし、予想もしている。

そうした行動の一つに次のようなものがある。

「人の弱みに付け込む」行為は、我々にとっては、人非人と思える。そのような行動にも、彼らなりの理由があり、それが通るのがアメリカなのだ。
自由とは、このようにすさまじいものであると同時に、殺伐とした、空しさも感じられるものである。
そのように我々は自由主義というものを考えているであろうか。

TPPなど、新たな経済圏を確立し、さらなる発展を期待しているが、その未来は、我々が今イメージしているものになるのだろうか。
我々の未来は、人情味あふれたものになるだろうか。
この予想、期待が現実のものになるかどうかはこれからの我々の選択次第である。

2014年10月14日火曜日

非日常について

イスラム国:「非日常」への逃避か 北大生、疎外感募らせ - 毎日新聞を読んで、非日常ということについて考えてみた。


今、イラクで起きていることは、非日常なのか?イスラム国は今、この地球上に存在し、戦いを挑んでいる現実である。確かに中東という日本から遠いところで起きていることである。しかし、現実である。
たとえば、我々にとって、「フクシマは現実か非現実か。日常か、非日常か」、考えてみよう。
我々がフクシマを非現実、非日常と捉えた時、問題は解決しない。なぜなら、参加しないからである。さわらぬ神にたたりなしなのである。そうして我々自身が現実から逃避しているのである。フクシマの問題の解決が遅れているのは、フクシマを現実として捉えないところに一つの原因がある。
イスラム国の問題を非現実と捉え、北大生のイスラム国への渡航を非現実的な挙行と捉えることは、我々自身がこの現実から逃避しようとしていることと同じである。これを現実の問題として捉え、生活に組み込んで、こうした学生と話す機会を作らなければ、この学生のような考えを持つ人は語る場を求め、場が国内になければ、渡航することになる。それを防ぐことはできない。

今は、ハレとケの区別がなく、二十四時間明るい中で、生活が営まれている。

一般家庭では、お茶の間で、テレビでイスラム国に対する多国籍軍の攻撃を観ながら、食事をしている。そして平和を語る。
これは異常である。そして、それが我々の日常になっているのである。

イスラム国の人たちから見れば、テレビを見ながら夕食を楽しんでいる人たちを思い浮かべながら戦っているのが現実なのである。イラン・イラク戦争のときイランに行ったことがある。その時、戦場に一週間後に行くという青年と話したことがあった。彼が「日本は、あこがれの国で、日本に行きたい」と言っていたことを思いだす。

現場(戦場)を仕切り、壁を隔てて、隔離し、接しないようにしているだけで、戦争は同時進行している現実である。

環境問題は、現場を隔離できない。領域を限定できない問題であり、非現実的なことが日常的に起き始めて、右往左往しているところである。

日常と非日常の、現実と非現実の、科学と非科学の線引きが一方的になされ、常識と非常識の線引きが、グローバルスタンダードで押し切られることに納得できない、そういう人がいるのである。

佐世保事件 凶行の裏にある「日常」のなかに次の一文がある。

「特別のこと」と「日常のこと」は地続きです。私たちは、滅多に起きない「特別のこと」を前に、「特別のこと」は日常とは断絶した「別世界」で起きると考え、思考から排除しがちです。でも実際には、「日常のこと」の積み上げのはてに「特別のこと」は起きているのです。