「坂の上」の「雲」は「クラウド」になった。「坂の上の雲」を志した日本は「異形の国」となった。 インターネットは障壁を超え、あらゆるものを結びつける。 多様性が拡大し、相互依存性は増大する。社会慣行は破壊され、新たな現実が生まれる。中国が貿易額でアメリカを抜いた。物流は変わり、均衡が崩れる。世界はフラットになり、「坂」が消える。人形の「目」は、「青」が「赤」に替る。 「青い鳥」が消えた「地平の向こう」に何を求めるか。 カナリヤは歌を忘れた。日本が忘れたものは何か。「異形の国」日本のゆくえは・・・・。月夜の海に浮かべてみる。
挨拶
ご同輩の、ご訪問、大歓迎いたします。
「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)
徒然なるままに観想を記しています。
2014年3月2日日曜日
坂の上のクラウドは坂を平らかにした
上昇志向、方向性をどう育成するか、フラット化した世界で新たな課題が生まれる。
平等が良いのは、差別があるからで、差別がなくなったとき、人の行動はどう変わるのか
走っても走っても先にゴールがある。
ゴールとスタートが同じ時点であり、スタートしなくてもゴールに辿り着いており、いつまで(どこまででないところをあじわうこと)行ってもゴールにたどり着けない。時間が無限に続く世界と同じである。
現在と過去が同じ、未来も現在も同じ、つまり進化のない世界、ブラックホールになる。
2010年12月20日に記していた
幻のオリンピック
2010年12月20日に記していた
1940年、東京で開かれることになっていたオリンピックは
反対運動のきっかけは、昭和12年7月7日の盧溝橋事件――日本軍と中国軍の間で起きた衝突事件――が起きたこと、その翌年には中国との間の戦争が長期化する見通しが強まったことによる。
アジア歴史資料センター
2010年12月20日に記していた
今、昨年の大河ドラマ「坂の上の雲」が再放送されている。相変わらずの人気である。秋山好古、真之の兄弟、それに正岡子規をモデルにし、明治から昭和にかけて近代化を進める日本の物語に、われわれ視聴者はこのドラマに何を見ているのであろうか。
「Always3丁目の夕日」は空前のロングセラーとなり国民的コミックとなった。
ここに共通するものは何なのだろうか?
以前、「清く貧しく美しく」と題する燈台守の生活を描いた感動的なドラマがあったことを思い出す。
誠実な生き方に感動した時代があった。今の人たちはこの物語をどう受け止めるのであろう。
村上春樹の「1Q84」は世界的に爆発的な人気だ。「スウェーデンの森」も映画化され、評判も高いようである。インターナショナルな文学が生まれたのだろうか。
一方、国内で好まれ、人気のある「坂の上の雲」は英語のタイトルさえ、不明確であるという。
この物語は、日本人受けするだけの物語か。
物語が完成したのは、昭和45年である。東京オリンピック後、新幹線が通り、万博が開催され、日本が高度経済成長の急坂を上り始めた時であった。
司馬遼太郎がその急坂の向こうに見える雲に何を見て、そして何を我々に伝えたかったのであろうか。
明治から敗戦までの時期を第一次近代化、その後の50年、1995年までの近代化を第二次近代化、そしてこれから始まろうとしている近代化を第三次近代化と呼ぶならば、日本は、第一次も、第二次も敗戦で終えた。第一次は軍事力、第二次は金融力で、そして新たに始まった近代化は、情報力あるいは知力による競争であると言われる。
この第三次近代化を勝利し、勝者の歴史を記すには、日本はどう戦うべきか、その知恵を見つけたいと願う。
谷沢永一著「」を参照し、司馬遼太郎が伝えたかったことを理解し、
寺島実郎著「われら戦後世代の「坂の上の雲」 ある団塊人の思考の軌跡」を参照し、戦後歩んだ道を知り、「失われた10年」に続く第3次近代化の雲の中で彷徨する現代に明るい晴れ間を見出したい
「坂の上の雲」で司馬遼太郎が言いたかったことは日本人には感動的なドラマであっても、国際的には評価の低いものなのであろうか。
評価が低くなる原因は、次のように、いろいろ考えられる。
もともと価値がない。
価値を表現できていない。
価値が複雑高度で理解不能である。
価値を計る基準が違う。
捨象するのではなく、価値が判るようになるまで保存することが必要であろう。
どうしようもなく美しいもの、純粋無垢の価値、汚すべきものではないものの保存はどう考えていくのか
まさに源泉の発露である
意固地
依怙地
素人と玄人
玄人とは、歴史的な積み重ねの中で洗練された技術を身につけた人
素人の誠実さ、無垢
素人が短兵急に玄人となろうとすると偽装が起こる
飾り始める 複雑化させる 長期化させる 重々しくする 貫禄
時代のより論理的になることを求めている
型、殻を作って安住しようとする
変化を同じように受け、対応する、公平な視界
2011年10月12日水曜日
ロシアがなぜそれほど脅威であったのか
司馬さんは日露戦争は祖国防衛戦争であったとする。
そして、ロシアが幕末以来の脅威であったという。
しかし、私の疑問は、なぜロシアが脅威になり、イギリスは脅威でなくなったのかという疑問である。
幕末の状況でいえば、イギリスの方が脅威であったはずである。
それが、イギリスは脅威ではなく、ロシアが脅威になったのは、明治外交の結果ではないのか。
イギリス、ロシアの外交はビスマルク体制からウィルヘルム2世の3B政策を巡り、西ヨーロッパを中心に合従連衡が繰り返される中で展開されたものであった。
中国の権益を守ろうとする英国がロシアの南下、ドイツの進出に対抗し、極東に日本を中心とした防御ラインを築くために、ロシアの脅威を煽動したとも考えられるのである。
さらには、イギリスは遠方にあり、ロシアは国境を接する隣国であったことも脅威をより身近に感じるものとなったのであり、典型的なイギリスの戦略にはめられて、日本は存亡をかけた闘いをさせられたとも考えられるのである。
私は「坂の上の雲」の中で、小村寿太郎が秋山真之に次のように語り、
「インディアンには理性的判断力というものが極めて薄く、それにひきかえ感情が豊かで部族愛が強く敵を憎む力が盛んであり、名誉心にとみ、かつ戦いを好み、一端戦いを始めれば互いに滅びるまで戦いをやめない。英も仏も、この習性を利用した。かれらにとめどなく銃と酒を与えた。特に英人は巧妙で,かれらはインディアンの中でもイロコワ族が最も勇敢で侠気に富んでいることを知り、これに利をくらわせて自分と同盟させ、この種族の力を借りて北方では仏軍の南下を防ぎ、さらには西部のインディアンを平らげさせた。かれらインディアンはこのように互いに抗争して殺し合ったため、十七世紀後半に北米にいた百八十万のこの有色人種が、二世紀経った今では煙のように消えてしまった。自滅したのです。」
最後にいった、
「相手の魂胆を知り抜いた上でここは一番、 イロコワにならざるを得ない」
という一言にアングロサクソン連合との関係を中心に近代日本の縮図を見るように感じる。
そして、ロシアが幕末以来の脅威であったという。
しかし、私の疑問は、なぜロシアが脅威になり、イギリスは脅威でなくなったのかという疑問である。
幕末の状況でいえば、イギリスの方が脅威であったはずである。
それが、イギリスは脅威ではなく、ロシアが脅威になったのは、明治外交の結果ではないのか。
イギリス、ロシアの外交はビスマルク体制からウィルヘルム2世の3B政策を巡り、西ヨーロッパを中心に合従連衡が繰り返される中で展開されたものであった。
中国の権益を守ろうとする英国がロシアの南下、ドイツの進出に対抗し、極東に日本を中心とした防御ラインを築くために、ロシアの脅威を煽動したとも考えられるのである。
さらには、イギリスは遠方にあり、ロシアは国境を接する隣国であったことも脅威をより身近に感じるものとなったのであり、典型的なイギリスの戦略にはめられて、日本は存亡をかけた闘いをさせられたとも考えられるのである。
私は「坂の上の雲」の中で、小村寿太郎が秋山真之に次のように語り、
「インディアンには理性的判断力というものが極めて薄く、それにひきかえ感情が豊かで部族愛が強く敵を憎む力が盛んであり、名誉心にとみ、かつ戦いを好み、一端戦いを始めれば互いに滅びるまで戦いをやめない。英も仏も、この習性を利用した。かれらにとめどなく銃と酒を与えた。特に英人は巧妙で,かれらはインディアンの中でもイロコワ族が最も勇敢で侠気に富んでいることを知り、これに利をくらわせて自分と同盟させ、この種族の力を借りて北方では仏軍の南下を防ぎ、さらには西部のインディアンを平らげさせた。かれらインディアンはこのように互いに抗争して殺し合ったため、十七世紀後半に北米にいた百八十万のこの有色人種が、二世紀経った今では煙のように消えてしまった。自滅したのです。」
最後にいった、
「相手の魂胆を知り抜いた上でここは一番、
という一言にアングロサクソン連合との関係を中心に近代日本の縮図を見るように感じる。
2011年9月18日日曜日
歴史
今、三木清の「歴史の概念」を読み、考えている。
歴史観とはそうして、歴史意識をもち、歴史をたぐり寄せ、歴史を生きることによって生まれる。
存在の歴史の中に埋もれている史料を掘り起こし、事実を明らかにし事実としての歴史とすることによって、ロゴスとしての歴史への端緒が開かれる。さらにそれがロゴスとしての歴史となる時、現在という制約を受ける。そしてそこに歴史観が生まれる。
人が自身の内面的なもの(伝統によって培われたもの)を知ろうとする時、歴史認識が必要である。人間は時間的空間的存在である。人間の空間的存在を知るためには自然観、時間的存在を知るためには歴史観が必要になる。
自然は法則によって、歴史は価値によって支配される。法則は発見され、価値は創られる。
創るためには構想力が必要である、それがエートスである。
構想力が歴史をつくり、構想力によって歴史は動く。
歴史が動くとは、歴史物語の中の一コマ毎の場面の変化をいうのではなく、歴史意識をもって歴史を眺める時、現在の価値観が新たな史実を発見する。その史実の模倣・創造により、新たな伝統が創られる。歴史に新たな意味が解釈が施され、過去の歴史と共に、現在の歴史にも新たな方向が与えられる。
歴史を書かれた歴史として、その意味を理解することだけでは、歴史は変わらない。伝統を守るだけとなる。生きた証は、存在としての歴史として残ることになる。
そこで生活している個人がどう生きたかを知り、そこにあったものを感じ取ることにより、歴史の意味が変わってくる。
民主主義時代の歴史は、過去の歴史を民主主義的に理解してはじめて生まれる。
司馬遼太郎が事実としての歴史を書いたのが「坂の上の雲」である。
司馬遼太郎によって、坂本龍馬が、秋山真之が新たに生まれた、
江戸時代、明治時代、そして大正・昭和時代が新たなものとして現れることになった。
それは戦後教育で教わったものとはことなる日本、日本人の姿であった。いや教わったとはいえない、無視された日本の姿であった。
20世紀の日本の歴史は、激動の歴史であった。誇り高いものであったろうか。
歴史意識とOPF
歴史を否定することは、アイデンティティを無視することになる。
歴史を生きることが人間である。
歴史を否定することはアイデンティティを否定することになる。アイデンティティを確立するためには、自分の歴史を創ることである。
医学は自然観を中心に、発達した。特に対症療法的な西欧医学はその原因を対象(つまり客体)の中に求めた。西欧医学では自然治癒力を重んじた東洋医学は主体の生活の中にその原因を探った。治療法は客体の除去、切断となったのが西欧医学であり、主体を除去。切断できない東洋医学では、生活改善が治療法となった。(東洋医学と西洋医学)
個々人の歴史意識によって、興味関心のあることは異なる、興味関心によって、異なる資料に基づき、歴史をたぐり寄せ、歴史の意味を解釈し、模倣、創造が行われる。その時、新しい歴史が生まれる。事実の歴史が、存在の歴史を生み、存在の歴史の新たな連なりがロゴスとしての歴史を変える。
東洋の劣等国、経済的な最貧国が列強に伍して近代化を進めたのが明治日本であった。
その建国日本を描いた作品が「坂の上の雲」である。
近代日本は我々の歴史意識の中で葬られていた。その近代日本の歴史を掘り起こしたのが「坂の上の雲」であろう。「坂の上の雲」によって、我々の現代は江戸時代以前の「近世日本」につながったのである。
「坂の上の雲」がこれほど人気を集め、人々の共感を得るのは、「坂の上の雲」に登場してくる一人ひとりの中に、自分自身を発見するからではないか。
その建国日本を描いた作品が「坂の上の雲」である。
近代日本は我々の歴史意識の中で葬られていた。その近代日本の歴史を掘り起こしたのが「坂の上の雲」であろう。「坂の上の雲」によって、我々の現代は江戸時代以前の「近世日本」につながったのである。
「坂の上の雲」がこれほど人気を集め、人々の共感を得るのは、「坂の上の雲」に登場してくる一人ひとりの中に、自分自身を発見するからではないか。
日本人のパトスに訴え、日本人のエートスを湧出し、共感を創り出し、ロゴスとしての日本のかたちを共有させるためであろう。
ここで日本という言葉を使っているが、この限定を除くと、「個人のパトスに訴え、社会にエートスを湧出し、共感を創り出し、ロゴスとしての国のかたちを共有させる」となる。そして国の歴史が始まるのである。建国に当たっては、どの国でも同じようにこうしたプロセスが進行する。
ここで日本という言葉を使っているが、この限定を除くと、「個人のパトスに訴え、社会にエートスを湧出し、共感を創り出し、ロゴスとしての国のかたちを共有させる」となる。そして国の歴史が始まるのである。建国に当たっては、どの国でも同じようにこうしたプロセスが進行する。
日本の近代化の歴史もこうして始められた。
国を創造するという最大の事業に、取り組んだわれらの先人の行き方に共感し、その生き方を模倣し、新たな日本を創造したいという願いのあらわれであったとも考えられる。
建国というのは、いつの時代にも大事業である。そして建国はいつの時代にも必要なものとなった。その時代にふさわしい国づくりをしなければ、国際社会では国体を維持できないのである。
そして今、特に求められているのが文化立国である。
文化立国には、文化科学が必要である。
文化科学の基礎には生活圏、生活権が置かれる。
経済立国に成功した日本が改めて、文化立国を遂げようとする時、超えなければならないのが昭和期の日本であろう。
「大東亜共栄圏」を大義として掲げ、
「坂の上の雲」によって日本人は明治を取り戻したのである。
それでは「大正・昭和」を取り戻せたのか?
三木の言葉でいうと「大正・昭和初期を「手繰り寄せて」そこで生きる一人ひとりの生き方を模倣し、その生き方の中にある伝統を受け継いでいるかということである。
昭和については完全ではないであろう。当の司馬さんもノモハンだけは書けなかったと証言されるように、完全には取り戻すことはできないであろう。
しかし、問われるのは、歴史のその時点に立って考えたかということである。
戦後日本人の大半ははそれを考えなかった。考えないように教育されてきた。それでよいのか。よかろうはずがない。それでは伝統は引き継がれない。
我々は戦後だけで生きているのではない。これまでの伝統の受けに生きているのである。
人間は自然的存在であると同時に歴史的存在である。人間の人間たる所以は歴史を持つことにある。歴史が人間性を育んできたのである。歴史を否定することは人間を否定することになる。歴史は人間の証である。歴史が人間性、人格を創ったのである。歴史を否定することは人格を否定することになる。
歴史というものは
歴史の中で、誇りが生まれる。自然科学は愛を生まない。社会科学が人間関係、心理を扱う。
自然科学の法則は、解明され、発見されても、発明されるものではない。
社会科学の原理原則は、全て発明されたものである。それは模倣と創造により、習慣化され、慣習となり、制度となり、法となったのである。社会は人間が発明したものである。
社会の発展は、その創造したものによって、評価される。
歴史を掘り起こし、事実としての歴史を創った(生きた)のが司馬遼太郎であった。
司馬遼太郎は、彼が信じた日本人、日本を語ったのである。そしてそういう日本人を生き、日本を創りたいと願ったのである。
坂本龍馬、西鄕隆盛、勝海舟等々は司馬さんが創った坂本像、西鄕像、勝像だといわれる。それが司馬さんの坂本、西鄕、勝の模倣である。模倣することによって、坂本、西鄕、勝を生きたのである。坂本龍馬も、西鄕隆盛も、勝海舟もそれぞれ先人を模倣すると同時に、自己を模倣して生きていたのである。歴史上の坂本龍馬は、坂本自身によって創られたと同様に、先人によって創られたといえるし(坂本も先人の行き方を見習った)、我々後人がその生き方を模倣し、意味を発見し、新たな生き方を見出すところに
自然科学の法則は、解明され、発見されても、発明されるものではない。
社会科学の原理原則は、全て発明されたものである。それは模倣と創造により、習慣化され、慣習となり、制度となり、法となったのである。社会は人間が発明したものである。
社会の発展は、その創造したものによって、評価される。
歴史を掘り起こし、事実としての歴史を創った(生きた)のが司馬遼太郎であった。
司馬遼太郎は、彼が信じた日本人、日本を語ったのである。そしてそういう日本人を生き、日本を創りたいと願ったのである。
坂本龍馬、西鄕隆盛、勝海舟等々は司馬さんが創った坂本像、西鄕像、勝像だといわれる。それが司馬さんの坂本、西鄕、勝の模倣である。模倣することによって、坂本、西鄕、勝を生きたのである。坂本龍馬も、西鄕隆盛も、勝海舟もそれぞれ先人を模倣すると同時に、自己を模倣して生きていたのである。歴史上の坂本龍馬は、坂本自身によって創られたと同様に、先人によって創られたといえるし(坂本も先人の行き方を見習った)、我々後人がその生き方を模倣し、意味を発見し、新たな生き方を見出すところに
歴史観とはそうして、歴史意識をもち、歴史をたぐり寄せ、歴史を生きることによって生まれる。
存在の歴史の中に埋もれている史料を掘り起こし、事実を明らかにし事実としての歴史とすることによって、ロゴスとしての歴史への端緒が開かれる。さらにそれがロゴスとしての歴史となる時、現在という制約を受ける。そしてそこに歴史観が生まれる。
人が自身の内面的なもの(伝統によって培われたもの)を知ろうとする時、歴史認識が必要である。人間は時間的空間的存在である。人間の空間的存在を知るためには自然観、時間的存在を知るためには歴史観が必要になる。
自然は法則によって、歴史は価値によって支配される。法則は発見され、価値は創られる。
創るためには構想力が必要である、それがエートスである。
構想力が歴史をつくり、構想力によって歴史は動く。
歴史が動くとは、歴史物語の中の一コマ毎の場面の変化をいうのではなく、歴史意識をもって歴史を眺める時、現在の価値観が新たな史実を発見する。その史実の模倣・創造により、新たな伝統が創られる。歴史に新たな意味が解釈が施され、過去の歴史と共に、現在の歴史にも新たな方向が与えられる。
歴史を書かれた歴史として、その意味を理解することだけでは、歴史は変わらない。伝統を守るだけとなる。生きた証は、存在としての歴史として残ることになる。
そこで生活している個人がどう生きたかを知り、そこにあったものを感じ取ることにより、歴史の意味が変わってくる。
民主主義時代の歴史は、過去の歴史を民主主義的に理解してはじめて生まれる。
司馬遼太郎が事実としての歴史を書いたのが「坂の上の雲」である。
司馬遼太郎によって、坂本龍馬が、秋山真之が新たに生まれた、
江戸時代、明治時代、そして大正・昭和時代が新たなものとして現れることになった。
それは戦後教育で教わったものとはことなる日本、日本人の姿であった。いや教わったとはいえない、無視された日本の姿であった。
20世紀の日本の歴史は、激動の歴史であった。誇り高いものであったろうか。
激動の時代を生きたという実感をどの国よりも強く抱いているはずである。
それを自己評価できない、しないところが日本人の特徴であるともいえる。
特徴というよりも、特性、もっといえば、性癖である。
それを自己評価できない、しないところが日本人の特徴であるともいえる。
特徴というよりも、特性、もっといえば、性癖である。
性癖というとやっと治療しなければという気になる。
その自覚がない。同質性が自覚することを不能にしている。
そして古典となりロゴスとしての歴史となった。
民族の構想力が高揚し、世界史に華々しく登場した当時の日本を描いたのが
構想力は個人の情熱に由来する。個人のパッションが国民のエートスと転じた時、個人はエートスに支配される。しかしそのエートスを転じることができるのは、個々人のエートス、個人のパッションに支えられた
民族の構想力が高揚し、世界史に華々しく登場した当時の日本を描いたのが
構想力は個人の情熱に由来する。個人のパッションが国民のエートスと転じた時、個人はエートスに支配される。しかしそのエートスを転じることができるのは、個々人のエートス、個人のパッションに支えられた
歴史意識とOPF
歴史を否定することは、アイデンティティを無視することになる。
歴史を生きることが人間である。
歴史を否定することはアイデンティティを否定することになる。アイデンティティを確立するためには、自分の歴史を創ることである。
医学は自然観を中心に、発達した。特に対症療法的な西欧医学はその原因を対象(つまり客体)の中に求めた。西欧医学では自然治癒力を重んじた東洋医学は主体の生活の中にその原因を探った。治療法は客体の除去、切断となったのが西欧医学であり、主体を除去。切断できない東洋医学では、生活改善が治療法となった。(東洋医学と西洋医学)
2011年4月3日日曜日
地震発生
3月11日14時46分頃に三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生しました。この地震により宮城県栗原市で震度7、宮城県、福島県、茨城県、栃木県で震度6強など広い範囲で強い揺れを観測しました。また、太平洋沿岸を中心に高い津波を観測し、特に東北地方から関東地方の太平洋沿岸では大きな被害がありました。気象庁はこの地震を「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と命名しました。(気象庁ホームページより)
地震発生時、地下鉄の中、電車が半蔵門駅で停車していたときであった。すぐに携帯で地震速報を見て、東北で大きな地震があったことを知る。しかし、その後に知られるようになる地震の恐さを想像することもできず、1時間近く、電車の中にとどまった。運転再開の見込みがなく、東西線は動いているかも、と期待し、飯田橋まで歩くが、ここでも電車は停車したままであった。駅近くの喫茶室に入り、順番待ち30分で、コーヒーを飲みながら、東西線の運転再開を待ち、1時間過ごす。
再び飯田橋駅に戻るが、電車は動いておらず、運転再開の見込みもなし、結局、高田馬場まで歩くことにした。飯田橋の交差点の歩道橋は人で溢れていた。
約1時間、高田馬場の事務所に帰り、一息つき、その晩は事務所に泊まることにし、近所の食堂で、テレビを見て、地震の被害を知った。
その時点では、地震の被害の規模、被災者の数など、今、現実に体験し理解しているような状況は予想だにしなかった。
湘南で、研修をしていた同僚が、研修が中止になり、夜遅く、急遽帰宅してきたので地震の大きさを身近に感じた。翌朝、池袋まで歩き、東上線で埼玉の自宅に帰宅した。
次の日,13日(日)は、電車が動いていたので、様子を見に事務所に出勤し、同僚と雑談し、いつものように帰宅した。事態の深刻さが徐々に明らかになっていった。
そして周囲の状況が急変し、深刻さが一段と身近なものとなったのは14日に始まった,計画停電であった。その影響で、われわれは通勤できなくなったのである。東上線は優先的に対象になったように感ずるのは被害者意識からだけではないように思えるのだが、「計画的」とはいえない情報伝達・周知方法と実施実態であった。ひとえに、情報管理(収集、分析、整理、提供)の杜撰さ、及び管理体制の不備が露わにされ、安全保障体制の基盤の脆弱さが目立った3週間であった。
地震発生時、地下鉄の中、電車が半蔵門駅で停車していたときであった。すぐに携帯で地震速報を見て、東北で大きな地震があったことを知る。しかし、その後に知られるようになる地震の恐さを想像することもできず、1時間近く、電車の中にとどまった。運転再開の見込みがなく、東西線は動いているかも、と期待し、飯田橋まで歩くが、ここでも電車は停車したままであった。駅近くの喫茶室に入り、順番待ち30分で、コーヒーを飲みながら、東西線の運転再開を待ち、1時間過ごす。
再び飯田橋駅に戻るが、電車は動いておらず、運転再開の見込みもなし、結局、高田馬場まで歩くことにした。飯田橋の交差点の歩道橋は人で溢れていた。
約1時間、高田馬場の事務所に帰り、一息つき、その晩は事務所に泊まることにし、近所の食堂で、テレビを見て、地震の被害を知った。
その時点では、地震の被害の規模、被災者の数など、今、現実に体験し理解しているような状況は予想だにしなかった。
湘南で、研修をしていた同僚が、研修が中止になり、夜遅く、急遽帰宅してきたので地震の大きさを身近に感じた。翌朝、池袋まで歩き、東上線で埼玉の自宅に帰宅した。
次の日,13日(日)は、電車が動いていたので、様子を見に事務所に出勤し、同僚と雑談し、いつものように帰宅した。事態の深刻さが徐々に明らかになっていった。
そして周囲の状況が急変し、深刻さが一段と身近なものとなったのは14日に始まった,計画停電であった。その影響で、われわれは通勤できなくなったのである。東上線は優先的に対象になったように感ずるのは被害者意識からだけではないように思えるのだが、「計画的」とはいえない情報伝達・周知方法と実施実態であった。ひとえに、情報管理(収集、分析、整理、提供)の杜撰さ、及び管理体制の不備が露わにされ、安全保障体制の基盤の脆弱さが目立った3週間であった。
2011年2月17日木曜日
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