現役時代に描いていた老後と現役を離れた実際の老後のギャップに老人は戸惑っていると『暴走老人!』はいう。社会環境の変化は急で、「500年の変化が50年で押しよせた」といわれるほどなのだ。
その変化が受容できる閾値を超えたとき、暴走老人が顕れた。
暴走する社会が生み出すのは、「暴走老人」だけではない。暴走する若者も生み出している。
暴走する社会は、適応不能と共に過剰適応の問題を生じさせる。
社会空間、社会時間、社会感情によって、人は秩序化され、育成されている。
暴走老人の出現は、「目に見えない制度やルールによって新たな秩序が構築されている」ことを示唆する。
バーチャル秩序である。バーチャル秩序は明文化されない。暗黙知なのである。
それは透明性をクリアした、公明正大なものとして、市民権を得て、社会基盤の中に組み込まれていく。
『暴走老人!』は一つの例を挙げる。
「時間」「空間」「感情」
それに伴い、「時間」「空間」および「感情」秩序も急激に変化している。その変化が受容できる閾値を超えたとき、暴走老人が顕れた。
暴走する社会が生み出すのは、「暴走老人」だけではない。暴走する若者も生み出している。
暴走する社会は、適応不能と共に過剰適応の問題を生じさせる。
社会空間、社会時間、社会感情によって、人は秩序化され、育成されている。
暴走老人の出現は、「目に見えない制度やルールによって新たな秩序が構築されている」ことを示唆する。
バーチャル秩序である。バーチャル秩序は明文化されない。暗黙知なのである。
それは透明性をクリアした、公明正大なものとして、市民権を得て、社会基盤の中に組み込まれていく。
『暴走老人!』は一つの例を挙げる。
ジョージ・リッツアは『マグロナルド化する社会』(早稲田大学出版部)で、ファストフード店が社会にもたらしたさまざまな変化について、次のように述べている。顧客と店の協業によって成り立つシステム。
ハンバーガーを求めて一列に並んでいる客たちやドライブスルーのラインに並んで待っている客たち、そして食品を作っている従業員たちがしばしば感じているのは、自分自身が作業ラインの一部になっているという感覚である。(中略)
こうした気持ちが強いと、自分の前で財布を覗きながら一向に支払いを終えようとしない高齢者などがいた場合、苛立ちのもとになりかねない。その高齢者をラインを乱す出来の悪い部品のように感じる人がいても不思議ではないだろう。(中略)
だがそうした場面では、私たちは他者に思いやりのある理解者としてではなく、時として敵対者となる。一番の問題はここにある。スムーズな流れが支障をきたすとき、多くの客がラインを動かす立場をとり、ラインそのものと化して、不揃いの部品を排斥するような情動を覚え、行動する。しかも無意識のうちに。
顧客も店も社会システムを構成する要素なのだ。
「待つ」という事
生活が「待つ」から「待たされる」へシフトし、「待つこと」を意識し始めた二〇世紀は、「待つこと」を無駄として排除し、「待つことの出来ない人間」を創り出した。待つことは、身体に訊くことにであり、体調を整える、体勢準備期間である。
身の回り、感情を整えるための期間なのである。その期間に、微妙な器官・機関・基幹調整が行われ、体勢が整えられるのだ。それは空間秩序・感情秩序を整えるための、非常に大切な時間なのである。
生命は、本来全体最適を志向する。「待つこと」によって、人はいろいろなことに気づくのである。その気づきが配慮として、奏効するのである。「期待」は、期(機)が熟すことを待つことにある、その期間が長ければ、期待も高まるのである。「待つこと」ができない人の期待は小さいものにならざるを得ない。「大志」を養育することはできないのである。
効率性・利便性を追求する社会は、社会的時間によって規制され、個人の身体的時間が無視される処に問題が生じる。
効率性・利便性を追求する社会は、社会的時間によって規制され、個人の身体的時間が無視される処に問題が生じる。
待つことができなくなった人は、心の余裕(豊かさ)を失った。
立ち止まって考えることもしない。思考停止状態、思考する時間を失っていることに気づかない。
認知症(認知障害・適応障害)が増加するのも当然の成り行きである。
国内外を問わず、多種多様な難民が増加しているのも社会革新の帰結である。