3月11日14時46分頃に三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生しました。この地震により宮城県栗原市で震度7、宮城県、福島県、茨城県、栃木県で震度6強など広い範囲で強い揺れを観測しました。また、太平洋沿岸を中心に高い津波を観測し、特に東北地方から関東地方の太平洋沿岸では大きな被害がありました。気象庁はこの地震を「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と命名しました。(気象庁ホームページより)
地震発生時、地下鉄の中、電車が半蔵門駅で停車していたときであった。すぐに携帯で地震速報を見て、東北で大きな地震があったことを知る。しかし、その後に知られるようになる地震の恐さを想像することもできず、1時間近く、電車の中にとどまった。運転再開の見込みがなく、東西線は動いているかも、と期待し、飯田橋まで歩くが、ここでも電車は停車したままであった。駅近くの喫茶室に入り、順番待ち30分で、コーヒーを飲みながら、東西線の運転再開を待ち、1時間過ごす。
再び飯田橋駅に戻るが、電車は動いておらず、運転再開の見込みもなし、結局、高田馬場まで歩くことにした。飯田橋の交差点の歩道橋は人で溢れていた。
約1時間、高田馬場の事務所に帰り、一息つき、その晩は事務所に泊まることにし、近所の食堂で、テレビを見て、地震の被害を知った。
その時点では、地震の被害の規模、被災者の数など、今、現実に体験し理解しているような状況は予想だにしなかった。
湘南で、研修をしていた同僚が、研修が中止になり、夜遅く、急遽帰宅してきたので地震の大きさを身近に感じた。翌朝、池袋まで歩き、東上線で埼玉の自宅に帰宅した。
次の日,13日(日)は、電車が動いていたので、様子を見に事務所に出勤し、同僚と雑談し、いつものように帰宅した。事態の深刻さが徐々に明らかになっていった。
そして周囲の状況が急変し、深刻さが一段と身近なものとなったのは14日に始まった,計画停電であった。その影響で、われわれは通勤できなくなったのである。東上線は優先的に対象になったように感ずるのは被害者意識からだけではないように思えるのだが、「計画的」とはいえない情報伝達・周知方法と実施実態であった。ひとえに、情報管理(収集、分析、整理、提供)の杜撰さ、及び管理体制の不備が露わにされ、安全保障体制の基盤の脆弱さが目立った3週間であった。