挨拶

ご同輩の、ご訪問、大歓迎いたします。
「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)
徒然なるままに観想を記しています。

2011年10月12日水曜日

ロシアがなぜそれほど脅威であったのか

司馬さんは日露戦争は祖国防衛戦争であったとする。
そして、ロシアが幕末以来の脅威であったという。

しかし、私の疑問は、なぜロシアが脅威になり、イギリスは脅威でなくなったのかという疑問である。
幕末の状況でいえば、イギリスの方が脅威であったはずである。
それが、イギリスは脅威ではなく、ロシアが脅威になったのは、明治外交の結果ではないのか。

イギリス、ロシアの外交はビスマルク体制からウィルヘルム2世の3B政策を巡り、西ヨーロッパを中心に合従連衡が繰り返される中で展開されたものであった。
中国の権益を守ろうとする英国がロシアの南下、ドイツの進出に対抗し、極東に日本を中心とした防御ラインを築くために、ロシアの脅威を煽動したとも考えられるのである。

さらには、イギリスは遠方にあり、ロシアは国境を接する隣国であったことも脅威をより身近に感じるものとなったのであり、典型的なイギリスの戦略にはめられて、日本は存亡をかけた闘いをさせられたとも考えられるのである。

私は「坂の上の雲」の中で、小村寿太郎が秋山真之に次のように語り、
「インディアンには理性的判断力というものが極めて薄く、それにひきかえ感情が豊かで部族愛が強く敵を憎む力が盛んであり、名誉心にとみ、かつ戦いを好み、一端戦いを始めれば互いに滅びるまで戦いをやめない。英も仏も、この習性を利用した。かれらにとめどなく銃と酒を与えた。特に英人は巧妙で,かれらはインディアンの中でもイロコワ族が最も勇敢で侠気に富んでいることを知り、これに利をくらわせて自分と同盟させ、この種族の力を借りて北方では仏軍の南下を防ぎ、さらには西部のインディアンを平らげさせた。かれらインディアンはこのように互いに抗争して殺し合ったため、十七世紀後半に北米にいた百八十万のこの有色人種が、二世紀経った今では煙のように消えてしまった。自滅したのです。」


最後にいった、
相手の魂胆を知り抜いた上でここは一番、イロコワにならざるを得ない


という一言にアングロサクソン連合との関係を中心に近代日本の縮図を見るように感じる。

2011年9月18日日曜日

歴史

今、三木清の「歴史の概念」を読み、考えている。


個々人の歴史意識によって、興味関心のあることは異なる、興味関心によって、異なる資料に基づき、歴史をたぐり寄せ、歴史の意味を解釈し、模倣、創造が行われる。その時、新しい歴史が生まれる。事実の歴史が、存在の歴史を生み、存在の歴史の新たな連なりがロゴスとしての歴史を変える。

東洋の劣等国、経済的な最貧国が列強に伍して近代化を進めたのが明治日本であった。
その建国日本を描いた作品が「坂の上の雲」である。
近代日本は我々の歴史意識の中で葬られていた。その近代日本の歴史を掘り起こしたのが「坂の上の雲」であろう。「坂の上の雲」によって、我々の現代は江戸時代以前の「近世日本」につながったのである。
「坂の上の雲」がこれほど人気を集め、人々の共感を得るのは、「坂の上の雲」に登場してくる一人ひとりの中に、自分自身を発見するからではないか。
日本人のパトスに訴え、日本人のエートスを湧出し、共感を創り出し、ロゴスとしての日本のかたちを共有させるためであろう。
ここで日本という言葉を使っているが、この限定を除くと、「個人のパトスに訴え、社会にエートスを湧出し、共感を創り出し、ロゴスとしての国のかたちを共有させる」となる。そして国の歴史が始まるのである。建国に当たっては、どの国でも同じようにこうしたプロセスが進行する。
日本の近代化の歴史もこうして始められた。

国を創造するという最大の事業に、取り組んだわれらの先人の行き方に共感し、その生き方を模倣し、新たな日本を創造したいという願いのあらわれであったとも考えられる。
建国というのは、いつの時代にも大事業である。そして建国はいつの時代にも必要なものとなった。その時代にふさわしい国づくりをしなければ、国際社会では国体を維持できないのである。
そして今、特に求められているのが文化立国である。

文化立国には、文化科学が必要である。
文化科学の基礎には生活圏、生活権が置かれる。

経済立国に成功した日本が改めて、文化立国を遂げようとする時、超えなければならないのが昭和期の日本であろう。

「大東亜共栄圏」を大義として掲げ、

「坂の上の雲」によって日本人は明治を取り戻したのである。
それでは「大正・昭和」を取り戻せたのか?
三木の言葉でいうと「大正・昭和初期を「手繰り寄せて」そこで生きる一人ひとりの生き方を模倣し、その生き方の中にある伝統を受け継いでいるかということである。
昭和については完全ではないであろう。当の司馬さんもノモハンだけは書けなかったと証言されるように、完全には取り戻すことはできないであろう。
しかし、問われるのは、歴史のその時点に立って考えたかということである。
戦後日本人の大半ははそれを考えなかった。考えないように教育されてきた。それでよいのか。よかろうはずがない。それでは伝統は引き継がれない。
我々は戦後だけで生きているのではない。これまでの伝統の受けに生きているのである。
人間は自然的存在であると同時に歴史的存在である。人間の人間たる所以は歴史を持つことにある。歴史が人間性を育んできたのである。歴史を否定することは人間を否定することになる。歴史は人間の証である。歴史が人間性、人格を創ったのである。歴史を否定することは人格を否定することになる。

歴史というものは
歴史の中で、誇りが生まれる。自然科学は愛を生まない。社会科学が人間関係、心理を扱う。
自然科学の法則は、解明され、発見されても、発明されるものではない。
社会科学の原理原則は、全て発明されたものである。それは模倣と創造により、習慣化され、慣習となり、制度となり、法となったのである。社会は人間が発明したものである。
社会の発展は、その創造したものによって、評価される。

歴史を掘り起こし、事実としての歴史を創った(生きた)のが司馬遼太郎であった。
司馬遼太郎は、彼が信じた日本人、日本を語ったのである。そしてそういう日本人を生き、日本を創りたいと願ったのである。
坂本龍馬、西鄕隆盛、勝海舟等々は司馬さんが創った坂本像、西鄕像、勝像だといわれる。それが司馬さんの坂本、西鄕、勝の模倣である。模倣することによって、坂本、西鄕、勝を生きたのである。坂本龍馬も、西鄕隆盛も、勝海舟もそれぞれ先人を模倣すると同時に、自己を模倣して生きていたのである。歴史上の坂本龍馬は、坂本自身によって創られたと同様に、先人によって創られたといえるし(坂本も先人の行き方を見習った)、我々後人がその生き方を模倣し、意味を発見し、新たな生き方を見出すところに


歴史観とはそうして、歴史意識をもち、歴史をたぐり寄せ、歴史を生きることによって生まれる。
存在の歴史の中に埋もれている史料を掘り起こし、事実を明らかにし事実としての歴史とすることによって、ロゴスとしての歴史への端緒が開かれる。さらにそれがロゴスとしての歴史となる時、現在という制約を受ける。そしてそこに歴史観が生まれる。

人が自身の内面的なもの(伝統によって培われたもの)を知ろうとする時、歴史認識が必要である。人間は時間的空間的存在である。人間の空間的存在を知るためには自然観、時間的存在を知るためには歴史観が必要になる。
自然は法則によって、歴史は価値によって支配される。法則は発見され、価値は創られる。
創るためには構想力が必要である、それがエートスである。
構想力が歴史をつくり、構想力によって歴史は動く。
歴史が動くとは、歴史物語の中の一コマ毎の場面の変化をいうのではなく、歴史意識をもって歴史を眺める時、現在の価値観が新たな史実を発見する。その史実の模倣・創造により、新たな伝統が創られる。歴史に新たな意味が解釈が施され、過去の歴史と共に、現在の歴史にも新たな方向が与えられる。
歴史を書かれた歴史として、その意味を理解することだけでは、歴史は変わらない。伝統を守るだけとなる。生きた証は、存在としての歴史として残ることになる。
そこで生活している個人がどう生きたかを知り、そこにあったものを感じ取ることにより、歴史の意味が変わってくる。
民主主義時代の歴史は、過去の歴史を民主主義的に理解してはじめて生まれる。
司馬遼太郎が事実としての歴史を書いたのが「坂の上の雲」である。

司馬遼太郎によって、坂本龍馬が、秋山真之が新たに生まれた、
江戸時代、明治時代、そして大正・昭和時代が新たなものとして現れることになった。
それは戦後教育で教わったものとはことなる日本、日本人の姿であった。いや教わったとはいえない、無視された日本の姿であった。

20世紀の日本の歴史は、激動の歴史であった。誇り高いものであったろうか。
激動の時代を生きたという実感をどの国よりも強く抱いているはずである。
それを自己評価できない、しないところが日本人の特徴であるともいえる。
特徴というよりも、特性、もっといえば、性癖である。
性癖というとやっと治療しなければという気になる。
その自覚がない。同質性が自覚することを不能にしている。

そして古典となりロゴスとしての歴史となった。

民族の構想力が高揚し、世界史に華々しく登場した当時の日本を描いたのが

構想力は個人の情熱に由来する。個人のパッションが国民のエートスと転じた時、個人はエートスに支配される。しかしそのエートスを転じることができるのは、個々人のエートス、個人のパッションに支えられた

歴史意識とOPF
歴史を否定することは、アイデンティティを無視することになる。
歴史を生きることが人間である。
歴史を否定することはアイデンティティを否定することになる。アイデンティティを確立するためには、自分の歴史を創ることである。

医学は自然観を中心に、発達した。特に対症療法的な西欧医学はその原因を対象(つまり客体)の中に求めた。西欧医学では自然治癒力を重んじた東洋医学は主体の生活の中にその原因を探った。治療法は客体の除去、切断となったのが西欧医学であり、主体を除去。切断できない東洋医学では、生活改善が治療法となった。(東洋医学と西洋医学

2011年4月3日日曜日

地震発生

3月11日14時46分頃に三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生しました。この地震により宮城県栗原市で震度7、宮城県、福島県、茨城県、栃木県で震度6強など広い範囲で強い揺れを観測しました。また、太平洋沿岸を中心に高い津波を観測し、特に東北地方から関東地方の太平洋沿岸では大きな被害がありました。気象庁はこの地震を「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と命名しました。(気象庁ホームページより)
地震発生時、地下鉄の中、電車が半蔵門駅で停車していたときであった。すぐに携帯で地震速報を見て、東北で大きな地震があったことを知る。しかし、その後に知られるようになる地震の恐さを想像することもできず、1時間近く、電車の中にとどまった。運転再開の見込みがなく、東西線は動いているかも、と期待し、飯田橋まで歩くが、ここでも電車は停車したままであった。駅近くの喫茶室に入り、順番待ち30分で、コーヒーを飲みながら、東西線の運転再開を待ち、1時間過ごす。
再び飯田橋駅に戻るが、電車は動いておらず、運転再開の見込みもなし、結局、高田馬場まで歩くことにした。飯田橋の交差点の歩道橋は人で溢れていた。
約1時間、高田馬場の事務所に帰り、一息つき、その晩は事務所に泊まることにし、近所の食堂で、テレビを見て、地震の被害を知った。
その時点では、地震の被害の規模、被災者の数など、今、現実に体験し理解しているような状況は予想だにしなかった。
湘南で、研修をしていた同僚が、研修が中止になり、夜遅く、急遽帰宅してきたので地震の大きさを身近に感じた。翌朝、池袋まで歩き、東上線で埼玉の自宅に帰宅した。
次の日,13日(日)は、電車が動いていたので、様子を見に事務所に出勤し、同僚と雑談し、いつものように帰宅した。事態の深刻さが徐々に明らかになっていった。
そして周囲の状況が急変し、深刻さが一段と身近なものとなったのは14日に始まった,計画停電であった。その影響で、われわれは通勤できなくなったのである。東上線は優先的に対象になったように感ずるのは被害者意識からだけではないように思えるのだが、「計画的」とはいえない情報伝達・周知方法と実施実態であった。ひとえに、情報管理(収集、分析、整理、提供)の杜撰さ、及び管理体制の不備が露わにされ、安全保障体制の基盤の脆弱さが目立った3週間であった。

2011年2月17日木曜日

「世界と日本の間違い」より、抜粋

自由と国家と資本主義について、世界と日本の認識のずれを質す。
抜粋稿はここ

2011年1月3日月曜日

正確な歴史認識(1)

19世紀、近代化の進む世界史に登場した日本は新参者であったという。
西欧の近代史を振り返り、当時の日本の位置づけを確認しておく。

14~15世紀にイタリアを中心に興ったルネッサンスはギリシア精神の復興とキリスト教的世界観からの解放により、世界観を新たにした西欧諸国は大航海時代を経て、さらなる発明・発見の場・分野を世界に拡げて科学的合理精神を育てていった。
16世紀から17世紀には、ヨーロッパはイタリア戦争、ユグノー戦争、三十年戦争など戦争に明け暮れた。
知謀を賭けた戦争、領土の拡大が発明・発見を促進し、新たな世界観・体制づくりが行われていったのである。スペインからオランダへ覇権が移転し、1648年ウェストファリア条約が結ばれ、合理的精神に基づく、ルールと体制が確立されたのであった。

1543年に鉄砲が、1549年にザビエルによってキリスト教が伝えられ、西欧文明に触れた日本では、戦国時代の末期、織豊時代をへて徳川によって江戸時代に入り、戦争が終結し、250年に亘る平和な時代に入ったのであった。鎖国によって「平和ぼけ(世界史との乖離)」が始まったのであった。
文武両道を実践的に開発していった西欧と文武両道を精神的な支柱として発達させていった差が近代化の足枷(不平等条約)となり、その克服に必死になったのが明治の近代化の姿であった。
ルネサンスから数えれば500年、ウェストファリア条約成立から数えて300年、産業革命から数えても100年の遅れを約50年で取り戻したのであった。
明治の建国日本の前にあった坂がどんなに急なものであったことか。
ウェストファリア条約で世界の開拓競争のルールが決められたのであった。これが万国公法と呼ばれるものの元型となったのである。それは「無政府状態にある世界で、絶対的権威を持った政府が武力を独占した国民国家(主権国家)同士が、経済的自立と固有の文化や価値観、イデオロギーを競い合い、世界秩序を確立しようとする」ものであった。

1760年の産業革命による機械力の活用による国力の差は決定的であった。
産業革命によって勢いを得たイギリスを中心として帝国主義的侵略が全世界に拡大していったのであった。日本が明治維新によって近代化のスタートラインに立ったとき、東洋は西欧諸国の群雄割拠、下克上の戦国模様で彩られる場であった(19世紀の外観を参照)。福沢諭吉が「脱亜入欧」を強調したのは、国としての体裁を整え、参加資格を獲得するために必要なことであった。
その参加資格が不十分であるときにつけられたハンディが不平等条約であったのだ。
国際社会の正会員になるために多大な努力が払われた。そして資格試験に合格し、会員資格を維持するためには実績が評価された。評価項目は軍事力と経済力であり、その細目が国民国家、殖産興業、帝国主義、植民地経営であった。
その努力が認められ、不平等条約が排除され、正会員となるために明治の約50年の歳月を要した。
そして正会員として、実績を確保する行動が既存の秩序を破壊する、品位の欠けたものであったために神の名を汚す、罪人として裁かれ、除名されたのであった。