挨拶

ご同輩の、ご訪問、大歓迎いたします。
「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)
徒然なるままに観想を記しています。

2014年6月14日土曜日

不正を不正と認識せず

科学的思考では、「〈不正〉を正しいことを証明できなかった〈仮説〉に過ぎない。」とでも考えるのであろうか。擬装を単なる仮説の綻びと考えているかのようである。
『サイエンスカフェ:不正を不正と認識せず - 毎日新聞』は、
《STAP細胞の不正でも会見した研究者に明確な反省は感じられなかった。「不正を不正と認識しない」。その言葉が妙に説得力を持って聞こえる。》
という。改めて科学者の鈍感を思い知らされる。
促成栽培で、必要な素養が十分に育たないままに伸びてしまったモヤシがバランスを失っているように見える。
《大学にはさらに科学史や科学哲学の授業を課し、広い視野と責任感を持った人材を育ててほしい》と、その治療に当たって、歴史・哲学を課すことを提言する。
退行し、麻痺した科学者の感覚は、理性では治せないのであろう。
弁証法の登場である。


2014年6月13日金曜日

ノバルティスのデータ改ざん

ノバルティスの社員が逮捕された。またしてもデータの改ざんである。
神聖であるべき科学の領域が侵されている。
問題をまとめてみれば、次図のようになる。メーカーと大学の癒着の上に胡坐をかく許認可行政。論文作成はメーカーにとって広告効果、研究者にとっては学会発表、学位論文のために、また研究費の援助を受ける口実として大きなメリットを生むものである。結果として、産学官による「ドラッグラグ大国」の創出、国民は高額医療費の負担を強いられる結果となる。

毎日新聞は以下の記事を特集する。

臨床試験疑惑 主論文も改ざん疑い ノ社立件も視野2014年06月12日

  • 臨床試験のデータを2009年の試験終了直後に受け取っていた
  • これを基に執筆されたバルサルタン[1]に関する同大の主論文もデータ改ざんが指摘されており、
  • 脳卒中などについてバルサルタンに有利な結果が出るようにデータを操作した図表を研究者に提供。
  • バルサルタンに脳卒中や心疾患の発症を抑える効果があるなどとしていた。
  • 白橋容疑者は自身で統計解析し、作成した図表を研究チームに提供。これを基に主論文が執筆された。

2014年6月12日木曜日

無重力な思い

日経新聞「春秋」に次のような文章を見つけた。
《人の重心はへその辺りにある。貝原益軒の養生訓では命の根がある場所。ここに力がないと体を支えられない。活動に支障も出るそうだ。航空会社にもあてはまる。へそは安全運航と顧客満足のはず。再建できて初心を忘れ、位置が見えなくなっていないか。会社運営の原理を学び直さないと、業績で臍(ほぞ)をかむことになる。》
《アルキメデスの原理》が発見された逸話から、《日本航空のシステム障害では、重心が計算できず、178便が欠航、約1万4千人が迷惑した。》ことに触れ、貝原益軒の養生訓へと話が展開している。

広辞苑に拠れば、思う、想うの語幹は重いの語幹と同源かと謂う。
重力に逆らい立ちあがり、二足歩行するようになった人間にとって重さを感じることが思うことの始まりであったことを想像させる。二足歩行にはバランスを取ること、重心の移動が最重要課題であり、最初に学習しなければならないことの一つであった。
進化(脳の発達)の過程で重い⇒思いが深い関係にあったことは容易に推測される。
大切なものに重要という言葉をあてたのも、思うことと重さの関係を表しているのであろう。
相手を思うということは、相手の重さを感得することと考えてみてはどうだろう。
そしてこのことは、我々が重力に支えられた存在であることを改めて気づかせる。
快苦感情は重圧に依って、重圧から解放されることから生まれる。
重力などの環境要因によって思考も成り立っていると考えられる。
若し我々が無重力状態で育ったなら、〈おもい〉ではなく、異なるもの、例えば〈かるい〉と名付けられるようなものを身に付けたかもしれない。

2014年6月11日水曜日

予測とその必要性

気候変動予測の裏側、性能「PCの1万倍」が必要な理由は予測が必要な理由を挙げている。
そしてその精度は急速に高まっている。そこに問題はないのだろうか。精度を上げるための努力(エネルギー)が環境(主体性)とのギャップを拡大しているのではないか。
システムが拡大し、分散管理、リーダーシップの必要性が説かれている。にも拘らず、主体性が最も発揮される説明(仮説の提案)部分から人間性《生きた経験)が排除されている。

このように、生きた経験が反映されない実験の繰り返しは、結果を実証する責任を回避したもので、その付けを後世に残すことになる。
物事は生活の中で生かされて初めて価値が出るのである。
中世、我々日本人は「生活にプラスであるものを善とし、マイナスものもを悪と名付けた」と謂われる。
コンピュータ〈情報システム)は偉大な発明である。
しかし、善用されなければ、人を惑わす圧倒的な力(悪)として働く。
その威力に見合う、意力の涵養が求められる。我々には現在原子力を使い熟す意力が備わっていないことだけは確かなようである。
システムは人工的である。人間の主体性が失われては、暴走するのみである。
システムが善用されるか悪用されるか、その主体性に委ねられている。

匿名性について考える

被告の弟が自殺… 発生から6年 今改めて考える「秋葉原事件」 ネット掲示板への固執が凶行を決意させた?」を読んで、ネットワーク社会の匿名性について考えてみた。
記事の要点は以下のものだ。
  • 「第三者の目」の限界と、「個人」が存在しない「世間」の怖さだ
  • 彼の意識は「掲示板がリアルで、リアルが非リアル」であったように思う。
  • 掲示板に秋葉原無差別殺傷事件を宣言してしまったことで、もう後戻りできないところまで来てしまっていることに気づきました」という掲示板への固執からだ。
  • その躾は屈辱的だったと批判する彼もまた、自身の母親同様に「言葉」で相手に説明する手段を知らない。
  • 掲示板の崩壊こそが「リアル(=自己が存在する場所)」の崩壊だったのだろう。
  • 事件が発生すると、加害者家族は、個人が存在しないこの“世間”に取り囲まれる
  • 匿名性が極めて高いインターネットが、もともと匿名性の高い「世間」の暴走をさらに加速させている
《「第三者の目」の限界》についは、本文に譲るとして、《「個人」が存在しない「世間」の怖さ》について考える。

《事件が発生すると、加害者家族は、個人が存在しないこの“世間”に取り囲まれる》という。事件が発生しなくても、「SNS参加者の関心に上れば」、十分に関係者はこの世間に取り込まれるのである。
つまりこの世間の,〈俎上に載せ〉られれば、もう〈俎板の鯉〉である。どう料理されるかは料理人次第である。綺麗に血抜きをして手際よく粗を取り、極上のお作りに仕上げるのである。新作メニューが競われているかのように・・・。
体話の不足が、肌合いが不足している。
赤ん坊に触れた時に感じる〈安らぎ〉のような感覚体験の不足が原因しているのではないだろうか。
社会がスマートになるにつれ、優しさまでもスマートになっているのだろうか。
優しさが消え、肌合いががさつき、逆立っていくように思えてならない。

科学的思考とは何か

『科学的思考とは何か』(竹内均著)は、現代の技術がシステム的であることを次の三つの面から指摘し、
第一に、それは個々の技術の束ね合わせという意味でシステム的である。第二に、生産だけでなく、生産の結果生じる廃棄物の回収や循環を考慮しなければならないという意味でシステム的である。第三に、価値観や好みの変化や社会的責任を考慮しなければならないという意味でシステム的である。
その著しい特徴は「束ね合わせ」「システム化」「ソフト・テクノロジー」「マネージメント」にあるという。
「科学的思考とは何か」「システムとは何か」、そして気象予測、地震予知など膨大な予算が予知・予測対策に割り当てられている。「なぜ今、予知・予測なのか」まとめてみた。経過・結果はこちらから


システムとは何か

「〈システム思考〉が必要である」といわれる。
なぜ、今、〈システム思考〉なのか。
システムとは何か。
考えをまとめてみた。

システムとは

システム

『現代科学思想事典』はつぎのようにいう。

《電気工学、機械工学尚の分野で機械装置を設計する際には、どのような構成要素をどのように結合させれば装置全体として最大の機能を発揮させうるかが重要な問題となる。このような機能が主となり、システムという観念が注目されてきた。システムとは「ある共通の目的に奉仕する複数の要素と要素間の相互依存関係よりなる複合体」と定義される。そしてより広い範囲の問題にも解決の一般的図式を与えるシステム分析、システム設計などシステム工学の分野を形成するに至り、今日その応用は生産工程の管理、情報処理システム、経営管理や宇宙開発など広い領域に及んでいる(目的をもった人工的なシステムの場合)一方、十九世紀に入って生物学や心理学においては古典的物理学の影響の強い原子論や要素主義的な分析への批判から、ある系を構成する部分や要素などはそれ自体で独自の意味を持つ究極的単位とはみなせないとするむしろそれはあたかも目的や秩序をもつ全体の組織化の原理により理解されうるとした。例えば全体論に立つL・ベルタランフィの理論生物学やゲーラー、コフカなどのゲシュタルト心理学が発展した。特にベルタランフィ波形の組織化、統合化の法則や動的平衡の現象を自然の様々のレベルに見出し、組織化された全体に関する科学と規定された一般システム理論を展開している。彼はそのシステムを「相互作用下にある諸要素の集合」と定義している。生物学区、心理学、社会学などの研究から共通の原理を抽象する経験主義的な研究のほかにも演繹的または公理系的システム論の建設がW・R・アシュビー、M・メサロヴィッツなどにより試みられた。アシュビーは環境からの入力の影響下にある変換の組としてのシステムというもっとも抽象的で可能的なものの全体に照らして現実の系に解釈、説明を与え、また安定性や目的概念などを生気論の助けを借りずに分析している。》

複雑な現象の総合的把握

《ブルバキ学派の数学やN・チョムスキーの言語学で、レヴィ=ストロースの人類学などを踏まえてJ・ピアジェが全体性、返還及び自己制御の三つの要素で特徴づけた構造の概念との関連も無視できない。システムとは実在そのものでなく、関係という概念を通じて実在から注そうした像と考えることもできる。またピアジェでは向王の概念は観察されるがままの相互作用の体系ではないにせよ、単なる主体の意識に属する形式というものでもなく、操作的行動を通じて確証されるものと考えられている。あらゆる現象観に相互作用が働いているという認識は、エンゲルスの自然弁証法を引き合いに出すまでもなく、科学技術の発達に伴う人類の自然に対する支配力の増大や社会の複雑化につれますます痛切なものとなっている。今日ではアッコフ、K・E・ボウルディンング等のシステム論者は従来の物理、科学、生物、社会といった専門学問の区分は死前にとっては単位人為的なものにすぎず、複雑な現象の理解のためには専門の壁を除いて生の素材に取り組む学際的集団研究の必要性を強調している。
最も問題のあるシステム概念は人為的であってかつ全体として目的を持たぬシステムである。例えば自然発生的集落や都市の交通系など、個々の要素(住民、ドライバー)はそれぞれ目的をもった主体であるが、システム全体としては目的を持っていない場合である。人間や社会に対するシステム論的方法の早急な適用への警告はシステム論者自身からなされている。システムという概念は、古典力学における質量、エネルギーのような、いわば幻想の根底をなす保存料的な概念とは、対照的な関係的、構造的概念である(あるいは形式的形相的概念)と同時に群論やグラフ理論などいわゆる有限数学の手法を有力な武器として捜査されうるが、その際何を要素と定め、何をシステムとして選択するか(切断)という点で、観察者に依存し、主観性を含む概念である。》

要するに、「相互作用下にある複合体を機能連関の統合として捉えたもので、観察者に依存する、名目論的なもの」である。
また、『科学的思考とは』(竹内均著)は現代の技術について、

《技術の総合、廃棄物その他の回収及び循環、価値観の変遷及び社会的責任という三重の意味で、現代の技術はシステム的である。このようなシステムを組むには、先ずシステムの目的と評価尺度を決定する。次に、ブレーンストーミングとデータの収集および分析を行う。》

要するに、科学、科学的思考は、思考実験を繰り返し、機能を統合化し、情報システムを生み出した。システム概念は情報システムとして体化し、思考実験を促進し、科学的思考はシステム思考として機能し、PDCAに要約された。
科学的思考⇒思考実験⇒システム化⇒情報システム⇒システム思考