挨拶

ご同輩の、ご訪問、大歓迎いたします。
「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)
徒然なるままに観想を記しています。

2014年6月11日水曜日

予測とその必要性

気候変動予測の裏側、性能「PCの1万倍」が必要な理由は予測が必要な理由を挙げている。
そしてその精度は急速に高まっている。そこに問題はないのだろうか。精度を上げるための努力(エネルギー)が環境(主体性)とのギャップを拡大しているのではないか。
システムが拡大し、分散管理、リーダーシップの必要性が説かれている。にも拘らず、主体性が最も発揮される説明(仮説の提案)部分から人間性《生きた経験)が排除されている。

このように、生きた経験が反映されない実験の繰り返しは、結果を実証する責任を回避したもので、その付けを後世に残すことになる。
物事は生活の中で生かされて初めて価値が出るのである。
中世、我々日本人は「生活にプラスであるものを善とし、マイナスものもを悪と名付けた」と謂われる。
コンピュータ〈情報システム)は偉大な発明である。
しかし、善用されなければ、人を惑わす圧倒的な力(悪)として働く。
その威力に見合う、意力の涵養が求められる。我々には現在原子力を使い熟す意力が備わっていないことだけは確かなようである。
システムは人工的である。人間の主体性が失われては、暴走するのみである。
システムが善用されるか悪用されるか、その主体性に委ねられている。

匿名性について考える

被告の弟が自殺… 発生から6年 今改めて考える「秋葉原事件」 ネット掲示板への固執が凶行を決意させた?」を読んで、ネットワーク社会の匿名性について考えてみた。
記事の要点は以下のものだ。
  • 「第三者の目」の限界と、「個人」が存在しない「世間」の怖さだ
  • 彼の意識は「掲示板がリアルで、リアルが非リアル」であったように思う。
  • 掲示板に秋葉原無差別殺傷事件を宣言してしまったことで、もう後戻りできないところまで来てしまっていることに気づきました」という掲示板への固執からだ。
  • その躾は屈辱的だったと批判する彼もまた、自身の母親同様に「言葉」で相手に説明する手段を知らない。
  • 掲示板の崩壊こそが「リアル(=自己が存在する場所)」の崩壊だったのだろう。
  • 事件が発生すると、加害者家族は、個人が存在しないこの“世間”に取り囲まれる
  • 匿名性が極めて高いインターネットが、もともと匿名性の高い「世間」の暴走をさらに加速させている
《「第三者の目」の限界》についは、本文に譲るとして、《「個人」が存在しない「世間」の怖さ》について考える。

《事件が発生すると、加害者家族は、個人が存在しないこの“世間”に取り囲まれる》という。事件が発生しなくても、「SNS参加者の関心に上れば」、十分に関係者はこの世間に取り込まれるのである。
つまりこの世間の,〈俎上に載せ〉られれば、もう〈俎板の鯉〉である。どう料理されるかは料理人次第である。綺麗に血抜きをして手際よく粗を取り、極上のお作りに仕上げるのである。新作メニューが競われているかのように・・・。
体話の不足が、肌合いが不足している。
赤ん坊に触れた時に感じる〈安らぎ〉のような感覚体験の不足が原因しているのではないだろうか。
社会がスマートになるにつれ、優しさまでもスマートになっているのだろうか。
優しさが消え、肌合いががさつき、逆立っていくように思えてならない。

科学的思考とは何か

『科学的思考とは何か』(竹内均著)は、現代の技術がシステム的であることを次の三つの面から指摘し、
第一に、それは個々の技術の束ね合わせという意味でシステム的である。第二に、生産だけでなく、生産の結果生じる廃棄物の回収や循環を考慮しなければならないという意味でシステム的である。第三に、価値観や好みの変化や社会的責任を考慮しなければならないという意味でシステム的である。
その著しい特徴は「束ね合わせ」「システム化」「ソフト・テクノロジー」「マネージメント」にあるという。
「科学的思考とは何か」「システムとは何か」、そして気象予測、地震予知など膨大な予算が予知・予測対策に割り当てられている。「なぜ今、予知・予測なのか」まとめてみた。経過・結果はこちらから


システムとは何か

「〈システム思考〉が必要である」といわれる。
なぜ、今、〈システム思考〉なのか。
システムとは何か。
考えをまとめてみた。

システムとは

システム

『現代科学思想事典』はつぎのようにいう。

《電気工学、機械工学尚の分野で機械装置を設計する際には、どのような構成要素をどのように結合させれば装置全体として最大の機能を発揮させうるかが重要な問題となる。このような機能が主となり、システムという観念が注目されてきた。システムとは「ある共通の目的に奉仕する複数の要素と要素間の相互依存関係よりなる複合体」と定義される。そしてより広い範囲の問題にも解決の一般的図式を与えるシステム分析、システム設計などシステム工学の分野を形成するに至り、今日その応用は生産工程の管理、情報処理システム、経営管理や宇宙開発など広い領域に及んでいる(目的をもった人工的なシステムの場合)一方、十九世紀に入って生物学や心理学においては古典的物理学の影響の強い原子論や要素主義的な分析への批判から、ある系を構成する部分や要素などはそれ自体で独自の意味を持つ究極的単位とはみなせないとするむしろそれはあたかも目的や秩序をもつ全体の組織化の原理により理解されうるとした。例えば全体論に立つL・ベルタランフィの理論生物学やゲーラー、コフカなどのゲシュタルト心理学が発展した。特にベルタランフィ波形の組織化、統合化の法則や動的平衡の現象を自然の様々のレベルに見出し、組織化された全体に関する科学と規定された一般システム理論を展開している。彼はそのシステムを「相互作用下にある諸要素の集合」と定義している。生物学区、心理学、社会学などの研究から共通の原理を抽象する経験主義的な研究のほかにも演繹的または公理系的システム論の建設がW・R・アシュビー、M・メサロヴィッツなどにより試みられた。アシュビーは環境からの入力の影響下にある変換の組としてのシステムというもっとも抽象的で可能的なものの全体に照らして現実の系に解釈、説明を与え、また安定性や目的概念などを生気論の助けを借りずに分析している。》

複雑な現象の総合的把握

《ブルバキ学派の数学やN・チョムスキーの言語学で、レヴィ=ストロースの人類学などを踏まえてJ・ピアジェが全体性、返還及び自己制御の三つの要素で特徴づけた構造の概念との関連も無視できない。システムとは実在そのものでなく、関係という概念を通じて実在から注そうした像と考えることもできる。またピアジェでは向王の概念は観察されるがままの相互作用の体系ではないにせよ、単なる主体の意識に属する形式というものでもなく、操作的行動を通じて確証されるものと考えられている。あらゆる現象観に相互作用が働いているという認識は、エンゲルスの自然弁証法を引き合いに出すまでもなく、科学技術の発達に伴う人類の自然に対する支配力の増大や社会の複雑化につれますます痛切なものとなっている。今日ではアッコフ、K・E・ボウルディンング等のシステム論者は従来の物理、科学、生物、社会といった専門学問の区分は死前にとっては単位人為的なものにすぎず、複雑な現象の理解のためには専門の壁を除いて生の素材に取り組む学際的集団研究の必要性を強調している。
最も問題のあるシステム概念は人為的であってかつ全体として目的を持たぬシステムである。例えば自然発生的集落や都市の交通系など、個々の要素(住民、ドライバー)はそれぞれ目的をもった主体であるが、システム全体としては目的を持っていない場合である。人間や社会に対するシステム論的方法の早急な適用への警告はシステム論者自身からなされている。システムという概念は、古典力学における質量、エネルギーのような、いわば幻想の根底をなす保存料的な概念とは、対照的な関係的、構造的概念である(あるいは形式的形相的概念)と同時に群論やグラフ理論などいわゆる有限数学の手法を有力な武器として捜査されうるが、その際何を要素と定め、何をシステムとして選択するか(切断)という点で、観察者に依存し、主観性を含む概念である。》

要するに、「相互作用下にある複合体を機能連関の統合として捉えたもので、観察者に依存する、名目論的なもの」である。
また、『科学的思考とは』(竹内均著)は現代の技術について、

《技術の総合、廃棄物その他の回収及び循環、価値観の変遷及び社会的責任という三重の意味で、現代の技術はシステム的である。このようなシステムを組むには、先ずシステムの目的と評価尺度を決定する。次に、ブレーンストーミングとデータの収集および分析を行う。》

要するに、科学、科学的思考は、思考実験を繰り返し、機能を統合化し、情報システムを生み出した。システム概念は情報システムとして体化し、思考実験を促進し、科学的思考はシステム思考として機能し、PDCAに要約された。
科学的思考⇒思考実験⇒システム化⇒情報システム⇒システム思考

2014年6月4日水曜日

自然について

『現代科学思想事典』伊東俊太郎編によれば、

ギリシアにおける自然

一般に「生まれる」という言葉と結びつくものと考えられている。そこでは生まれ、成長し、衰え、死するものが「自然」であった。つまり「自然」とはそのうちに生命力を有し、自らからの力により生成発展するものであった。従ってそれは近代の「自然」概念の如く「他から力を加えられない限り、その運動状態を変えず、静止するものは永久に静止する」(ニュートンの第一法則)ことを本性とする自然ではなく、むしろアリストテレスがその「自然学」」の中で定義したように「自らのうちに運動の原理をもつもの」が自然であった。
このように自然自身が一種の生命力を持ち、生成発展の原因をもつ――そのように自然の素材が生命をもつという意味での「物活論」が、ギリシアの少なくとも支配的な自然観であった。
古代ギリシアにおいては、近代におけるように死せる無機的自然ではなく、生命ある有機的自然が「自然」の原型であった。このようなギリシアの自然観においては、「自然」は何ら「人間」に対立するものではない。人間はむしろそのような生命的自然の一部として、それに包み込まれている。自然は人間に対し異質的対立的ではなく、むしろこれと同質的に調和する。神ですらそこでは「自然」を超越するのではなく、それに内在的である。実際「万物は神々に満ちている」(タレス)のであり、「踏み入ればそこにも神々は住む」(ヘラクレイトス)のである。
近代におけるように、我々に全く無縁で異質的なこの自然に、外から「実験」という「拷問」をかけ、それを「支配」するのではなく、我々に親縁な同質者として、それを内から「直観」し「理解」することである。そしてそこに直観し把握さるべきものは、外的現象としての自然の「法則」ではなく、そのものの内的本質としての「形相」であった。結局ギリシアにおいては、自然は人間や神をもその中に包み含む生きとし生ける統一体であって、このような一種の「汎自然主義」を基礎としていたといえよう。

中世における自然

ところが中世キリスト教世界に入ると、上述したようなギリシアの「汎自然主義」は粉砕され、神と人間と自然との截然たる階層的・異質的な秩序が現れてくる。そこでは自然も人間も神によって創造されたのであり、神はこれらのものから全く超越している。
そしてこの三者はいずれもそれぞれ独自な役割と活動をもちながら、下位のものは上位のもののために存在する。人間は神のために存在し、自然は人間のために存在する。人間はこの中間にあって知性により神を知り、理性により自然を認識する。この中世の自然観においては神・人間・自然がこのように階層的に分断されることによって、先ず神は自然の一部ではなく、これを超越する。自然に内在していた神は消えたなくなり、「大いなるパーンは死んだ」のである。ついで人間もまた自然の一部ではなくなった。自然はもと人間と同じく神によって創造されたものとして、今やそれ自身としては人間の全くあずかり知らぬ「外なるもの」となる。人間は自然と同質的なものではなく、それから疎外される――というよりも自然を越え出てその上に臨み、それを支配し利用するものとなる。ここに、自然を人間と全く独立無縁なものとしてこれを客観化し、この「気心の知れぬ」第三者に、外から実験的操作を加えて白状させ、これを純粋な他者として科学的に把握しようとする近代の実証主義的態度の形而上学的源泉が看て取れるのである。この意味では確かに「キリスト教の時代の帰結が自然の機械論化であり、キリスト教が実証科学と技術を可能としたのである」(ベルジェフ)。もちろん中世思想は一挙にしてこのような帰結に達したのではない。しかしそれがギリシアの「汎自然主義を破り、自然を人間と同質的なものとしてではなく、人間とはまったく異なる独立な第三者としたことは、自然から人間を追放し、これを専ら機械論化してゆく近代の自然観を準備したことは疑えない。

近代における自然

上述のように自然は神によって人間に対し、第三者として定位された。今や自然は何ら人間との類推を許されぬそれ自身の独立な存在となった。のこの「非人間化」ア推し進められる時、それは軈て自然から人間的要素としての色や匂いなどの「第二性質」やさらには「目的意識」などを追放して、専らこれを「大きさ」「形」「運動」などの自然自信の要素において、因果的に分析してゆくという立場に至る。こうした自然の観方に、ルネサンス以降復活したギリシアの数学的方法が結びつくならば、それは既にほぼ近代の自然観が成立したといってよいであろう。つまり本来人間の側の性質であるところの「質」を捨象し、専ら「量的」関係だけで、自然を客観的因果的数学的に把える「機械論的自然観」がこれである。中世においてここに至る思想的素地がすでにあったとはいえ、このような徹底的な反省は近代哲学の祖デカルトを待たなければならなかった。デカルトは若くして成功を修めたその『幾何学』に彼の「自然の機械論化」の鍵を見出し、ここに用いられている方法を数学的対象のみならず自然界の事物一般にも適用し、あらゆる物体を一様な幾何悪的「延長」として把握し、それらの物体の量的関係のみを求めてゆこうとした。この意図を遂行するために、デカルトがまずなさなければならなかったのは、「実体形相」の消去――つまりアリストテレス的な霊魂〈プシューケー〉のスコラ的翻訳である。「生命原理」を物体から除去することであった。彼にとってこのように物体から霊魂的・心的なものを取り除くことは、同時に精神から一切の物的なものを取り除くことであり、ここに彼の徹底した二元論が成立する。ここでは心とか霊魂とか呼ばれてきたものは「純粋椎」として純化され、同時に自然は単なる延長として一切の人間的生命的要素を欠いた数学的対象となる。ここに古代ギリシアの有機的自然観は、近代の無機的自然観にとって代わられ、physisの訳語とされたnaturaは、今やnascor(生まれる)との連関を断ち切ることとなる。単位「形」「大きさ」「運動」という延長的な面からのみとらえられ、それ自身色も匂いもない数学的物理的自然が、本来の自然であって、生命的自然と呼ばれるものは、前者がある特別な配置をとった結果に過ぎないのである。このようなデカルトにおいて典型的に示されている近代の機械論的自然観は、その後根本的には変わらず、依然として我々の今日の科学的思考を嚮導しているといえよう。

自然の支配

近代の自然観を問題とするとき、右の「機械論的自然観」と並んで、もう一つの特長を挙げておかねばならない。それは人間によって「支配され利用さるべき自然」という新しい概念である。既に述べた用意ぎっりしあにおいては自然は人間により整復さるべき「対立者」ではなく、かえって人間と同質のものとして内から直感し理解さるべきものであった。それは理論の対象であっても支配の対処ではなかった。しかし中世キリスト教世界では、自然を本来人間に仕えるものとして把え、これを技術的に利用しようとする功利的・実践的自然観がすでに十二世紀以来芽生えていた。しかしこのイデーを最も自覚的かつ雄弁に表明したのはデカルトと並んでもう一人の近代哲学の祖とされているフランシス・ベイコンであった。彼において自然はまず未知なる第三者として、経験に即して実験的に試され、そのことにより自然は「解剖」され、それによって得た知識に基づいて支配され、現実に利用さるべきものであった。これが「知は力である」といった時の彼の新しい実践的知識観であり、「自然はそれに服従することによって征服される」といった時の自然に対する新しい態度であった。彼はその著『学問の進歩』において、自然についての学問を自然のなかの原因だけをたずねる「思弁的」科学と、逆に結果を生ぜしめる「操作的」科学とを区別したが、この後者の概念にはギリシアには存在しなかった自然の実践的支配のイデーが表現されている。
彼にとって科学とは単にアリストテレス的な観相〈テオーリアー〉ではなく、自然に働きかけ、これを支配しようとする実践的な知識であり、このためには「自然の物体をむき出しにし、人工的に変化させ処理する技術」としての「実験」が重んぜられる。これによる自然の統御とその利用により[人類の欠乏と悲惨とを克服する一連の発明を生み出す]ことを彼は企図したのである。
このようなデカルト=ベイコン的な近代の自然観は確かに多くの成功をおさめ、人類の物質的条件を根本的に改善し今日の科学技術時代を現出せしめている。この意味でそれは一定の積極的な役割を果たしてきたといえよう。しかし今や外ならぬこの近代の自然観がそのようなプラスの面だけではなく、「公害」その他のマイナスの面をも生み出している当のものであることを否定することはできないだろう。我々はすでにベイコンのように、近代の自然観とそれに基づいた近代科学のゆく末を、手放しのオプティミズムをもって見ているわけにはいかない。近代の機械論的自然観がもたらした人間と自然との乖離を乗り越えて、再び自然全体と人間との調和、自然の一部としての人間を改めて定位しなおす新しい思考が開始されなくてはならないだろう。

2014年6月2日月曜日

STAP効果

発信箱:STAP効果=青野由利は次のように言う。
STAP騒動がここまで拡大した背景にも、そんなギャップがあったのではないだろうか。
全くである。科学信仰が崩れるいいきっかけである。
材料科学が専門の岸輝雄さんの言葉には、異分野への釈然としない思いがにじむ。
解釈が一般化していないこと、「世間」を狭くし、ガラパゴス化へ進む体制が在るのでは・・・
これはほとんど、特性化している?
人々の科学的知識の底上げや、急速に進む生命科学への理解を助ける効果もあるはずだ。
これは、我々一般人への警告でもある。責任はシェアしましょう。
過信を慎み、ポジティブシンキングで、ドアはノックして科学をたずね(訪ね、訊ね、尋ね)てみることだ。
最近、政治、経済、実業界で不正・擬装が多発し、社会システムの信頼性が揺らいでいる。
韓国でフェリーが沈没し、過積載が問題になり、韓国の政財界は大揺れである。
過積載、偽装をせざるを得ないほどに社会的な需要(欲望)が肥大している、アンバランスな現実を直視しなければならないのではないだろうか。
韓国では民衆の怒り(私憤)が、公憤・義憤となって、社会制度の根幹を揺さぶっている。
「浄化作用が機能し始めた」といえる。これが正しく機能し、清浄化につながることが望まれる。
一方、日本はどうであろうか。
「船頭多くして船山に登る」。これを多くで力を合わせると船も山に上げられるという意味だと思っている若者も多い。》と毎日新聞は伝える。本末転倒、支離滅裂である。
そもそもから始めなければならない…・

2014年6月1日日曜日

幸せの学び

幸せの学び:<その97> あるブラジル移民=城島徹に出合った。

幸福論として、ページを設け、所感をまとめていく。
他人は何を仕合わせと感じ、考えているか、体感的理解を深めたい。